ヘレニズムとローマ支配下の時代、多くの現存する建造物が経年劣化といくどかの戦争による損傷から修理された[8]。特にアッタロス朝の王たち、アッタロス2世(パルテノン神殿の北西角)やエウメネス2世(プロピュライアの前)といった外国の王の記念碑が建てられた。 これらは初期のローマ帝国時代に、アウグストゥス (またはクラウディウス)と アグリッパにそれぞれ捧げられた[9]。エウメネスは南斜面の柱廊の建設に責任を持った。これはアゴラの下にあるアッタロスのものと似てなくもない。
ユリウス=クラウディウス朝 の間、パルテノン神殿から23kmのところにある、小さく丸いローマとアウグストゥスの神殿が、この台地の上で最後の価値ある建設となった[10]。 同じ頃北斜面では、洞窟の中に同じような物がパーンへと捧げられ、アルコンが就任時にアポローンに捧げた場所に聖域が設けられた[11]。次の世紀、南斜面にはヘロディス・アッティコスがオデオンを建てた。
3世紀のうちに、ヘルール族の侵略の脅威より、アクロポリスの壁は修復され、Beule Gateがプロピュライアの前の入り口を制限するために建設された。これにより、アクロポリスは要塞としての使用に戻った[8]。
東ローマ帝国とオスマン帝国時代ヴェネツィアによる包囲、1687年
ビザンティン時代に、パルテノン神殿は聖母マリアに捧げられた教会にされた。アテネ公国のもと、アクロポリスはパルテノン神殿、公爵の宮殿の一部のプロピュライアとともに行政的な中心としての機能を果たした。"Frankopyrgos" (フランク人の塔)という大きな塔が加えられたものの、19世紀に破壊された。オスマン帝国による統治後、パルテノン神殿はトルコ軍の守備隊の司令部として使われ[12]、エレクテイオンは総督の個人的なハレムへと変えられた。アクロポリスの建築物は、1687年のヴェネツィアによる包囲による損傷で傷ついた。火薬の貯蔵庫となっていたパルテノン神殿は、大砲による 攻撃によって燃え、激しいダメージを負った。 アクロポリスの入り口は大きな価値のある門となっており、プロピュライアと呼ばれる。入り口の南には小さなアテーナー・ニーケー神殿がある。アテナイの青銅像はペイディアスによって彫られ、最初はこの中心に立っていた。アクロポリスの中心にはパルテノン神殿が立っている。入り口の東とパルテノン神殿の北にはエレクテイオンとして知られる神殿がある。アクロポリスの頂上を形成する高台の南には、ディオニューソス劇場と呼ばれる屋外劇場がある。数百メートル先には、部分的に再現されたディオニューソス劇場がある。 すべての貴重な古代の遺物は、南斜面のパルテノン神殿から260mのところにあるアクロポリス博物館に保存されている。
遺跡
見取り図アテナイのアクロポリスの見取り図
パルテノン神殿
アテナ古神殿