アッバース朝(?????? ????????、al-Dawla al-‘Abb?s?ya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2のイスラム王朝(750年?1258年)。ウマイヤ朝に代わり成立した。
王朝名は一族の名称となった父祖アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(預言者ムハンマドの叔父)の名前に由来する。 イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。 東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった[1]。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。 アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。 アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。 イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。 ウマイヤ朝末期、ウマイヤ家によるイスラム教団の私物化はコーランに記されたアッラーフの意思に反しているとみなされ、ムハンマドの一族の出身者こそがイスラム教団の指導者でなければならないと主張するシーア派の反発が広がった。このシーア派の運動はペルシア人などの被征服諸民族により起こされた宗教的外衣を纏った政治運動であり、現在でも中東の大問題として尾を引いている。 また、このほかにもアラブ人と改宗したペルシア人などの非アラブムスリムとの対立があった。ウマイヤ朝では非アラブムスリムはマワーリーと呼ばれ、イスラム教徒であるにもかかわらずジズヤ(人頭税)の支払いを強制され、アラブ人と同等の権利を認められなかった。この差別待遇はイスラムの原理にも反するものであり、ペルシア人などの間には不満が高まっていた[2]。 こうした不満を受けてイラン東部のホラーサーン地方において747年に反ウマイヤ朝軍が蜂起した。反体制派のアラブ人とシーア派の非アラブムスリム(マワーリー)である改宗ペルシア人からなる反ウマイヤ朝軍は、749年9月にイラク中部都市クーファに入城し、アブー=アル=アッバース(サッファーフ)を初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。翌750年1月、アッバース軍がザーブ河畔の戦い
概要
歴史
前史詳細は「ウマイヤ朝」を参照アッバース朝時代の刀剣(トプカプ宮殿所蔵)
ザーブ河畔の戦い