アッティラ
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フン族はドナウ川沿いを攻撃してラチアリア(現アルカール)の軍事拠点を蹂躙し、破城槌と攻城塔を用いて(フン族にとっては最新の軍事技術だった)ナイスス(現ニシュ)の包囲を成功させた。次いでニシャバ川沿いを進軍してセルディカ(現ソフィア)、フィリッポポリス(現プロヴディフ)そしてアルカディオポリスを占領した。フン族はコンスタンティノープル城外で東ローマ軍と遭遇してこれを撃破し、コンスタンティノープルの城壁の前でようやく止まった。別の東ローマ軍もカリポリス(現ゲリボル)で敗北し、もはや対処すべき軍隊を持たないテオドシウス帝は敗北を認め、廷臣アナトリウスを送り講和交渉をした。講話条件は以前の条約よりも厳しいものになり、皇帝は侵略時の条約不遵守の賠償として金6,000ローマ・ポンド (2000 kg) の支払いを認めた。貢税の年額は3倍にされ、金2,100ローマ・ポンド (700 kg) となった。さらにローマ人捕虜の身代金は一人12ソリドゥス金貨に引き上げられた。要求は当分の間満たされ、二人のフン王は彼らの帝国内へ引き上げた。

歴史家ヨルダネスによると、フン族が東ローマ帝国から引き揚げた和平期間(445年頃)中にブレダが死に(ローマ側の史料[11]では弟が仕掛けた狩猟中の事故で殺されたとある)、アッティラがフン族の単独統治者となった[12]
単独統治プリスクスの記述の断片を元に描かれた『アッティラの饗宴』、タン・モル画

歴史家プリスクスによると、ある羊飼いが土中から剣を掘り出しアッティラへ献上した。アッティラはこれを喜び、これを軍神マルスの剣であると信じ、自分は全世界の支配者になる運命であると自信を持ったという[13][14]

447年、アッティラは南下し、モエシアを通って東ローマ帝国領へ再び侵攻した。ゴート族の軍司令官、(マギステル・ミリトゥム)アレネギスクロスに率いられたローマ軍は、ウトゥスでアッティラと戦うが敗北。フン族は抵抗を受けずにトラキアまでのバルカン半島を略奪した。コンスタンティノープルは総督フラウィオス・コンスタンティヌスによって城壁が再建され(地震により損傷していた)、また幾つかの箇所で新たな防御線が築かれており助かった。この侵略の生き残りの記録は以下のように述べている。

トラキアにいる野蛮なフン族はとても強大になり、数百の都市が奪われ、コンスタンティノープルも危険になり、多くの人々が逃げ出した……そしてたくさんの人々が殺され、血が流されて、死者の数を数えることもできない。ああ、彼らは教会と修道院を奪い、大勢の修道士や修道女たちが虐殺された。(カリニコス著『聖ヒュパティオスの生涯』)

449年、東ローマ皇帝テオドシウス2世はアッティラの元へ使節を送ったが、その中に歴史家プリスクスがいた。プリスクスは使節をもてなす豪華な饗宴の中で、アッティラの食器だけが非常に質素で、彼の振る舞いが清廉だったことを記録している[15]。テオドシウス帝は使節の中に刺客を潜ませていたが、暗殺は失敗に終わった[16][17]。アッティラは東ローマの使節を罰することなく、丁重に送り返した[18]

450年7月、東ローマ皇帝テオドシウス2世が崩御し、マルキアヌスが後を継いだ。軍人出身の新帝は強硬策に出て、貢税の支払いを停止した[19]
ガリア侵略とカタラウヌムの戦いガリア侵略におけるフン族の進撃路。

450年、アッティラはトゥールーズ西ゴート王国を攻撃する意図を宣言し、西ローマ帝国皇帝ウァレンティニアヌス3世と同盟を結んだ。西ローマ帝国及びその実質的支配者のフラウィウス・アエティウス将軍は、少年時代に人質としてフン族へ送られて彼らの中で生活を送っており(少年時代のアッティラと親交があったとも[20]、親しい人物は先王のルーア[21]または別人でアッティラとは個人的な親交はなかったともされる)、以後もアッティラと良好な関係を持っていた。フン族騎兵は西ローマ軍とゴート族やバガウダエ(ガリアの農民反乱軍[22])などとの戦いに参加してアエティウスを助けている[23]。さらに西ゴートと敵対し脅威を感じていたヴァンダル王ガイセリックの贈物と外交努力もおそらく、アッティラの計画に影響を与えた[24]

だが、アッティラに西ローマ帝国侵略の絶好の口実ができた。愛人の家令を殺され(愛人とともに謀反を企てていたとされる[25])、ローマ元老院議員との強制的な婚約をさせられたウァレンティニアヌス帝の姉ホノリアが、アッティラへ助けを求める書状に指輪を添えて送って来たのである。これが巷間言われるように求婚を意図していたか否かは諸説あるが、アッティラはこれを「求婚」と解釈することを選んだ。彼はこれを受け入れ、西ローマ帝国の半分を持参金として要求した。ウァレンティニアヌス帝はこの企てを知ると、母のガッラ・プラキディアの説得でホノリアを殺さず幽閉させた[26][27]。彼はまたこの求婚の合法性を頑強に否定する書状をアッティラへ書き送った。アッティラはホノリアは無実であり、求婚は合法で自らのものを手にするために赴くであろうと宣言する使者をラヴェンナへ送った。カタラウヌムの戦い。両軍の武装は中世のもので描かれている。


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