アッツ島
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日本は1930年代、アリューシャン海域に農林省の調査船「白鳳丸」を派遣しており、アッツ島にも寄港していることが確認できる[8]:106。オットセイの回遊調査や密猟取り締まりを目的としていたが、アメリカ軍の軍備などの情報を収集する任務も課されていたという[8]:106。
第二次世界大戦詳細は「アリューシャン方面の戦い」、「日本軍によるアッツ島の占領」、および「アッツ島の戦い」を参照アッツ島の戦いの戦況図(日本軍の最期の突撃が赤)。図示されているのは島の東部で、アッツの村や、マサカー・ベイなどが示されている。

1942年6月7日、日本軍はアッツ島に抵抗を受けずに上陸し占領した(翌日にはキスカ島も占領した)。第二次世界大戦における初の枢軸国によるアメリカ領土占領であった。

アッツ島には42人のアレウト族の住民と、2人の白人の住民がいた[注釈 2]。2人の白人は夫婦で、夫のチャールズ・フォスター・ジョーンズ(Charles Foster Jones, オハイオ州出身、1879年 - 1942年)は無線技士、妻のエッタ(Etta, ニュージャージー州出身、1879年 - 1965年)は教師で[10]、看護師を兼ねていた[8]:89。チャールズ・フォスター・ジョーンズは、日本による占領直後に死亡している[注釈 3]

日本軍はキスカ島に一旦部隊を集結させてアッツ島を無人化することにし、島民たちを日本本土に移送することにした。アレウトの住民40人は1942年9月17日に島から出航し、北海道小樽市に移送された(後述)。唯一の白人であったエッタ・ジョーンズは神奈川県横浜市バンドホテルに収容された(ここにはラバウルの戦いで捕らえられたオーストラリア人捕虜たちも収容されており、エッタはオーストラリア人たちとともに戦争の終わりまで収容先を移動した)[10]

1943年5月12日にアッツ島に日本軍の5倍の人員を持つアメリカ軍が上陸し、アッツ島の戦いが繰り広げられた。日本軍にとってこの島を守る戦略的意義は薄く、増援は断られ、5月29日に日本軍の最後の突撃が行われ、組織的抵抗は終了。5月30日、アメリカ軍は島の占領を宣言した。日本の大本営発表において、日本軍守備隊の「玉砕」という表現が初めて使われた。アッツ島では、奪回を目指したアメリカ軍によって、アッツの村が破壊された[11]

アッツ島を奪回したアメリカ陸軍航空軍(USAAF)は、アレクセイポイント陸軍飛行場 (Alexai Point Army Airfield) を建設。1943年7月10日に千島列島への空襲の基地として使用した。これはドゥーリトル空襲以来の日本領土への空襲であった。この基地はその後も出撃拠点として使用された[12]
第二次世界大戦後

戦争が終わった時、小樽で抑留されていたアッツ島民で生き残っていたのは、25人であった。合衆国政府は彼らのアッツ島帰還を認めず、アリューシャン列島の別の島に移送した(後述)。背景としては、冷戦へと発展していく米ソ対立を前に、アリューシャン列島の西半分を無人とする方針があったとされる[11]

1953年には日本の遺骨収集団が戦後初上陸。その後、1978年にも政府(厚生省援護局)の慰霊巡拝団が訪問し、遺骨収集を行っている[13]

合衆国政府はアッツ島南端のセオドアポイントにLORANステーションを建設することを決定した。この施設には、アメリカ沿岸警備隊の約20人が配置された。基地は1954年にカスコ・コーヴ (Casco Cove Coast Guard Station) に、1960年にマサカー・ベイ (Massacre Bay (Alaska)) に移転した。

アッツ島には旅客便を飛ばす計画があり、1976年にはリーブ・アリューシャン航空がアンカレッジとの航空便を計画した[14]。アッツ島の空港はアメリカ最西端の空港でもあった。

1985年、第二次世界大戦の戦績とその後の軍事施設は、合衆国史跡に指定された[12][15]

1987年米国内務省の承認を得て、日本国政府はアッツ島の戦いを記念した「北太平洋戦没者の碑」を玉砕の地である雀ケ丘(英語名エンジニア・ヒル)に建てた。碑文には日本語と英語で「さきの大戦において北太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび平和への思いをこめてこの碑を建立する」との銘が刻まれた[16]

2007年7月、島で日本兵のブーツと足の骨が発見され、2008年5月23日には、さらに2人の日本兵の遺体が米国沿岸警備隊員(史跡保存チームの記録員・広報官)によって回収された[17]。埋葬地ではより多くの遺体が発見され、後に改葬する計画が立てられた[18][19][20]

2010年8月1日、アッツ島の米国沿岸警備隊LORANステーションが完全に運用を停止した。2010年8月27日に基地は廃止されて職員が去り、島には住民がいなくなった[3]。また同年8月12日に放送されたNHKスペシャル『玉砕 隠された真実』の制作にあたっては、NHKアメリカ合衆国政府との交渉により上陸・撮影の許可が下りている。

沿岸警備隊のLOLAMステーション(1997年)

島民の抑留と戦後

アレウト住民40人[注釈 4]が、1942年9月17日に「陽光丸」でアッツを出航、キスカ島で「長田丸」に乗り換えさせられ、9月20日にキスカ島を出港した[8]:86。船は北海道の小樽港に入港し、日本での敵国人の抑留政策の一環として、アレウトたちは小樽市内に収容されることになった。当初は若竹町(現在の勝納町)の木造施設に収容され、1944年に清水町に移された[21]。アレウトたちは占領時にすでに結核を患っている者が多く[8]:87、慣れない環境、乏しい食料事情の中で多くが亡くなった。小樽に抑留されたアレウトは、小樽で生まれた5人を含めて45人であり、うち20人が抑留中に命を落としたという(小樽で生まれ、生き延びたのは1人だけであった)[21][注釈 5]

小樽に移されていたアレウトの島民は、戦争が終わった時25人が生き残っていた[11]。合衆国当局はかれらの置かれた状況を把握していなかったと言明した[25]。合衆国政府ははアッツ島の村を再建維持するには十分な人数がいないとして帰島を認めず、850km離れたアトカ島に送られた[26]
記念碑北太平洋戦没者の碑(2007年7月に撮影)

2017年現在、アッツ島には記念碑が14ある。

うち5つは日本(日本人)によって建てられたもので、4つまでがエンジニア・ヒルにある[27]:135, 173。

最も大きなものは1982年に日本政府が建てた「北太平洋戦没者の碑」(英語ではPeace Memorial)である[27]:135, 173。厚生労働省は「北太平洋戦没者の碑」の清掃・巡回等を合衆国魚類野生生物局に委託している[16])。

大村紀二軍医中尉の記念碑。家族が設置したと思われるもので、2013年時点でかなり劣化しており、2016年には行方不明になっている[27]:173-174。

1953年にフォート・リチャードソン国立墓地(アンカレッジ)に埋葬されていた日本人235人の遺体(アッツ島での戦死者)が荼毘に付されたことを記念した「鎮魂」の石版[27]:173-174

1978年に北海道知事堂垣内尚弘の名と「鎮魂」の文字を記した青銅製の銘板[27]:173-174。

戦闘が終わって間もなく、アメリカ軍は戦場に解説パネルを立てたが、その中にはアッツ村があった場所を示すものと、山崎保代陸軍中将の勇敢さを讃えるものがあった[27]:135。


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