歴史的には、イランの東アーザルバーイジャーン州、西アーザルバーイジャーン州とともにイラン高原を支配する政権の統治下にあることが多かった。もともとはイラン系の人々が住んでおり、南のイラン高原側と同じくゾロアスター教の拝火壇などの宗教施設が多数建立されていた。
7世紀にアラブの支配下に入ったのちも住民はゾロアスター教徒が多く、シーア派の信徒たちも含めてイスラム教への改宗は緩やかだったようである。イスラム時代以降この地域は、バクーより北側の地域をシルヴァーン地方、バクー周辺をグシュタースフィー地方、アラス川北岸の内陸部をアッラーン地方、クラ川とアラス川が合流する低地一帯をムーガーン地方と呼んでいた。11世紀から12世紀に建てられたバクー旧市街の乙女の塔
セルジューク朝の時代にオグズ・テュルク系遊牧民(テュルクメン)が進出してテュルク化・イスラム化が進んだ。特にモンゴル帝国の地方政権イルハン朝時代は、ムーガーン地方周辺が南方のバグダードと並んでイルハン朝君主たちの冬営地に定められた地域でもあった。またイルハン朝滅亡後はカラコユンル朝やジョチ・ウルス系の諸政権の支配が及ばなかった集団の出入が激しく、これらテュルク・モンゴル系の遊牧勢力の浸透によって、これらの地域の住民のテュルク化・イスラム化はさらに進展した。一時ティムール朝の支配下にあったものの、イルハン朝滅亡後はこれらの地域を統括できる政治勢力は久しく現れなかった。
17世紀にこの地方を拠点にサファヴィー朝が起こり、カスピ海南西岸地域一帯の多くのテュルクメン系の人々がシーア派へ改宗した結果、アゼルバイジャン人(アゼリー人)と呼ばれる民族が形成されていった。アラス川以北の現アゼルバイジャン共和国領は、元来イラン高原に属しウルーミーエ湖周辺のタブリーズやマラーゲを中心とするアーザルバーイジャーン地方とは別個の地域であって、アゼルバイジャンとは呼ばれていなかったが、南の東西アーザルバーイジャーン州との民族的共通性から次第にアゼルバイジャンという地名で呼ばれるようになった。アルダビール州からカスピ海沿岸部にかけてはタリシュ人のタリシュ・ハン国(英語版)(1747年-1813年)が自治していた。
1804年に始まった第一次ロシア・ペルシア戦争の講和条約であるゴレスターン条約(1813年)でアゼルバイジャンの大部分がロシア帝国領に編入された。1826年に始まった第二次ロシア・ペルシア戦争の講和条約であるトルコマーンチャーイ条約(1828年)で、ガージャール朝ペルシアのアラス川北岸地域もロシア帝国に割譲された。
やがてロシアの統治下でアゼリー人の民族意識が高まった。1918年、この地域のアゼリー人民族主義者たちはロシア革命(十月革命)後の混乱を縫ってアゼルバイジャン民主共和国を打ち立てることに成功したが、イギリス軍によって占領され、これに反応した赤軍がバクーに侵攻、ソビエト政権が成立した。1922年末、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の一部となり、同連邦の解体に伴い1936年よりアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国として直接にソビエト連邦を構成する共和国の一つになった。
1989年10月5日、共和国主権宣言。1991年2月5日、「アゼルバイジャン共和国」に国名変更。1991年8月30日、共和国独立宣言。
1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)に参加。同年12月25日付でソ連邦は解体・消滅。これによりアゼルバイジャンは晴れて独立国家となった。
政治第4代大統領イルハム・アリエフ詳細は「アゼルバイジャンの政治(英語版)」を参照
事実上、アゼルバイジャン共産党が改名した新アゼルバイジャン党の一党独裁であり、他の中央アジア諸国やカフカス諸国と同じくソビエト連邦時代の社会主義的体制が温存されている。 大統領は直接選挙で選出され、任期は5年。政府閣僚は、大統領が任命する。大統領附属機関としてアゼルバイジャン共和国大統領附属安全保障会議がある。「アゼルバイジャンの大統領」および「アゼルバイジャンの首相」も参照 1993年以来、元アゼルバイジャン共産党書記長のヘイダル・アリエフが大統領として政権を掌握し、強権的な政治を敷いてきた。2003年にアリエフは健康不安から引退を余儀なくされたが長男のイルハム・アリエフが後継者に指名されて大統領選挙に勝利し、権力の世襲委譲が果たされた。 2016年、国民投票により大統領の任期が5年から7年に延長されたほか、大統領就任に必要な年齢制限を撤廃、副大統領職の新設などの制度改正が行われた。2017年、新設され副大統領職にイルハム・アリエフ大統領の妻、メフリバン・アリエヴァが任命されている[24]。 立法府の名称は、国民議会(ミリー・メジリス)で、一院制で任期5年、議席数は125議席。 複数の政党が存在するが、事実上はイルハム・アリエフが党首である「新アゼルバイジャン党」によるヘゲモニー政党制である。「アゼルバイジャンの政党」も参照 司法権はアゼルバイジャン最高裁判所
行政
立法
政党
司法
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「アゼルバイジャンの法律(英語版)」および「アゼルバイジャン共和国憲法(アゼルバイジャン語版、英語版)」も参照
国際関係イルハム・アリエフとマレーシアの首相マハティール・ビン・モハマド(2019年10月26日) 詳細は「アゼルバイジャンの国際関係(アゼルバイジャン語版、英語版)」を参照
アゼルバイジャンは、非同盟運動、欧州安全保障協力機構、NATO平和のためのパートナーシップ、欧州・大西洋パートナーシップ理事会、世界保健機関、欧州復興開発銀行、欧州評議会、CFE条約、民主主義共同体(英語版)、国際通貨基金、世界銀行といった国際連合の関連団体および構成組織と多くの関係を築き上げている。
一方で脱ロシア志向のウクライナやモルドバとは1997年にGUAMを結成し、創立時より参加を続けている。また、ウクライナとジョージアが2005年に発足した民主的選択共同体(英語版、ウクライナ語版)(CDC)には、オブザーバーの1ヶ国として参加している。
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日本との関係「日本とアゼルバイジャンの関係」を参照
アルメニアとの関係「アルメニアとアゼルバイジャンの関係(英語版)」を参照
ナゴルノ・カラバフ問題を巡って対立関係にある。両国間に外交関係はない。
トルコとの関係「アゼルバイジャンとトルコの関係(英語版)」を参照
同じくテュルク系のトルコとは強い友好関係が築かれており、しばし「2つの国家、1つの民族」と形容される。トルコは1991年のアゼルバイジャン独立を承認した最初の国であり、アゼルバイジャンの石油とガス輸出の主要なパイプラインが通過する。トルコとアルメニアはアルメニア人虐殺を巡って険悪な関係であることも加わり、ナゴルノ・カラバフ問題ではアゼルバイジャンの主張を全面的に支持し、アゼルバイジャン将校の訓練など軍事的支援を行っている。[25][26]。 フランスには約60万人のアルメニア人やその子孫が在住し、その数は西ヨーロッパ最大規模に達している。有力なアルメニア系市民も多く、伝統的にアルメニアに融和的な政策をとり、軍事支援などを行っている。フランスは大戦中に行われたトルコによるアルメニア人大量虐殺(ジェノサイド)を非難し、2001年には法的にジェノサイドを認定しており、必然的にアゼルバイジャンとも良好な関係ではない[27][28]。
フランスとの関係
国家安全保障陸軍が保有する軍用車両であるマローダー
マローダーは同国の軍事力を象徴する存在ともなっている詳細は「アゼルバイジャン共和国軍」を参照
情報機関詳細は「アゼルバイジャンの情報機関」を参照
アゼルバイジャンにおける主要な情報機関は国家安全保安局(アゼルバイジャン語版、英語版)(DTX)である。
地理地形図詳細は「アゼルバイジャンの地理」を参照「アゼルバイジャンの水域」も参照
カスピ海の西岸に位置し、北はロシア、南はイランに挟まれる。北緯38度?42度、東経44度?55度。南北400km、東西500kmに及ぶ。地形上、カスピ海沿岸部と大コーカサス山脈、中央平原に3区分できる。全ての河川がカスピ海に注ぎ、最長はKur川の1515kmである。最高地点はバザルドュズ山(海抜4466m)である。南にアゼルバイジャンの飛地である自治共和国ナヒチェヴァン自治共和国がある。領土内にアゼリー人居住地に囲まれているもののアルメニア人人口の多いナゴルノ・カラバフ地方がある。
飛地はナヒチェヴァンのほかにカルキ(英語版)、ユカリ・アスキパラ(英語版)、バルクダルリ(英語版)、ソフル(英語版)がある。いずれもアルメニアに囲まれており、ナゴルノ・カラバフ戦争時にアルメニアに占領された。他方、アゼルバイジャンは領内にあったアルメニアの飛地アルツヴァシェンを占領している。バクーから半島にかけ344の泥火山が分布
環境最高峰バザルドュズ山詳細は「アゼルバイジャンの環境(英語版)」を参照
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生態系カラバフ馬が印刷された切手
カラバフ馬はアゼルバイジャンを代表する動物である詳細は「アゼルバイジャンの野生生物(英語版)」を参照
アゼルバイジャンでは、106種の哺乳類、97種の魚類、363種の鳥類、10種の両生類、52種の爬虫類が記録・分類されている。