アステカ
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先代次代
テノチティトラン
en:Tlatelolco (altepetl)
en:Tlacopan
en:Azcapotzalco (altepetl)
en:Colhuacan (altepetl)
en:Texcoco (altepetl)
en:Chalco (altepetl)ヌエバ・エスパーニャ

アステカ(Azteca、古典ナワトル語(英語版): Azt?cah)は、1428年頃から1521年までの約95年間北米メキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明国家メシカ(古典ナワトル語: m?xihcah メーシッカッ)、アコルワテパネカの3集団の同盟によって支配され、時とともにメシカがその中心となった。言語は古典ナワトル語(ナワトル語)。
名称

「アステカ」という名称は19世紀はじめのアレクサンダー・フォン・フンボルト(ドイツの博物学者兼探検家である)が民族の伝説上の故地であるアストランに由来して名付けた造語である。言語・地理・政治・民族・土器の種類などさまざまな意味を含むが、範囲としてもメシカのみを指す場合もあれば、メキシコ盆地のすべての人を指す場合もあれば、ナワトル語話者すべてを指す場合もあれば、アステカ三国同盟を指す場合もあれば、マヤオアハカ州の住民を除くメソアメリカすべての人々を指す場合もある。より明確にするために以下のような語を用いることがある。

地理的名称としては中央メキシコ、またはその中のメキシコ盆地など

民族名としてはナワ族、またはその一部であるメシカ(ただし「ナワ」は研究者による呼称であり自称ではない)

言語名としてはユト・アステカ語族ナワ語群、またはその一部であるナワトル語

歴史詳細は「アステカの歴史(スペイン語版、英語版)」を参照
建国

歴史的には、アステカ人の移動と定住は12世紀ごろより続いた北部からのチチメカ人の南下・侵入の最後の1章にあたる。アステカ神話によればアステカ人はアストランの地を出発し、狩猟などを行いながらメキシコ中央高原をさまよっていた。やがてテスココアスカポツァルコクルワカン、シャルトカン、オトンパンなどの都市国家が存在するメキシコ盆地に辿りつき、テスココ湖湖畔に定住した。1325(または1345)年、石の上に生えたサボテンに鷲がとまっていることを見たメシカ族は、これを町を建設するべき場所を示すものとしてテスココ湖の小島に都市・テノチティトランを築いた。その後、一部が分裂して近くの島に姉妹都市・トラテロルコを建設したとされる[1][2]
アスカポツァルコの属国としてアステカの神殿(メキシコ州)アステカのイーグル戦士の彫像アステカのジャガー戦士スペイン征服時のメキシコ盆地アステカ神話を題材としたメキシコの国章

アステカはメキシコ盆地の最大勢力であるテパネカ族の国家アスカポツァルコ朝貢してその庇護を受けていたが、1375年アカマピチトリはアスカポツァルコ王国の許可を得て国王トラトアニ)に即位し、世襲の王族となった。当時のアスカポツァルコ王テソソモクは一代の英主であり、彼の時代にアスカポツァルコはメキシコ盆地のかなりの部分を制圧する。アステカはアスカポツァルコの属国として兵員を提供する義務があったが、やがてアスカポツァルコの許可のもと、アステカは独自に出兵を行うようになり、テスココ湖の南部にあるいくつかの集落を領土にくわえた。こうして、アカマピチトリはアスカポツァルコの属国として領土を拡張することで国力を増加させた[3]

1396年にアカマピチトリが死去すると、その子であるウィツィリウィトルが長老による評議会によって王に選出された。ウィツィリウィトルも父同様アスカポツァルコに従い、その過程で領土を拡大した。このころ、アスカポツァルコ最大のライバルはテスココ湖東岸のアコルワ人の都市テスココとなっていた。テスココ王のイシュトリルショチトル・オメトチトリはチチメカの王を称し、アスカポツァルコと対決する姿勢を取った。イシュトリルショチトルの妻はアステカの有力者であるチマルポポカの娘であり、この姻戚関係を利用してテスココはアステカに共闘を呼び掛けたが、1417年にアステカの第三代国王に就任したチマルポポカは、アスカポツァルコとの同盟を堅持してテスココと敵対する方針を取った[4]

1418年、アスカポツァルコとテスココはついに開戦し、アスカポツァルコが勝利。イシュトリルショチトルは殺害され、息子のネサワルコヨトルは逃亡してテスココはアスカポツァルコの支配下に入った。この戦いでアステカは大きな役割を果たし、アスカポツァルコの最有力の同盟都市のひとつとなった。
覇権

1426年にテソソモクが死亡すると、アスカポツァルコ王にはテソソモクの息子であるマシュトラが即位したが、権力闘争が激化し、その過程でチマルポポカも暗殺された。かわって1427年に王位についたイツコアトルはアスカポツァルコへの敵対を強め、一触即発の雰囲気となった。この時テスココの旧主であるネサワルコヨトルが同盟案を携えてテノチティトランを訪れ、アステカに援助を要請した。この案は受け入れられ、まずアステカ軍はテスココへ侵攻してネサワルコヨトルを支配者とし[5]、その後両都市と、さらに湖の西岸にあるテパネカ人の都市トラコパンの三都市が同盟を結んでアスカポツァルコへ侵攻し、1428年に滅亡させた。こうしてアステカはテスココと共闘してアスカポツァルコを倒し、湖の西岸にあるトラコパンを加えてアステカ三国同盟(英語版)を結成した[3]。これがいわゆる「アステカ帝国」である。こののちアステカの勢力がほかの二都市を圧して伸びていくものの、国制上はアステカは最後までアステカ(テノチティトラン)・テスココ・トラコパンの三都市同盟だった。アスカポツァルコ崩壊後、三都市はその領土を分割し、テスココは湖の東部を、トラコパンはアスカポツァルコを含む湖の西部を、そしてテノチティトランは湖の北部と南部の支配権を得た。この勢力図はその後も継承され、各都市はそれぞれその方向に勢力を拡大していった。

アスカポツァルコを滅ぼし覇権を握ると、イツコアトルは勢力拡大に乗り出した。まず最初に手を付けたのが、ネサワルコヨトルへの軍事援助とテスココ湖南部への出兵である。テスココを奪回したばかりのネサワルコヨトルはいまだ安定した勢力基盤を築き上げておらず、このためイツコアトルはネサワルコヨトルへの援軍としてテスココ湖東部のアコルワ人地域への出兵を行い、この地域をテスココの勢力範囲として確定させた。アコルワ人地域の制圧をもって、1431年にネサワルコヨトルはテスココ王に正式に即位した。一方テノチティトラン独自の動きとしては、テスココ湖南部のソチミルコ地域へ出兵し、この地域を完全にアステカの支配下においた。この地域はチナンパ畑の広がる非常に肥沃な穀倉地帯であり、ここを制圧したことでアステカの食糧事情は大幅に改善され、また同盟の他二都市に対する優位を保つ力の源泉ともなった。この地域を制圧するとすぐにイツコアトルはテノチティトランとテスココ湖南部のイツタパラパンとを結ぶ土手道を築き、これによってテノチティトランから帝国南部への交通が大幅に改善されたほか、淡水のテスココ湖南部と塩水のテスココ湖北部の水が交わるのを防ぎ、南部の農業生産に改善をもたらした[6]

1433年にはさらにメキシコ盆地の南にあるクアナウワク(現在のクエルナバカ)地方に同盟三都市で共同出兵して占領し、これがアステカの領土拡大の端緒となった。アステカ王イツコアトル・テスココ王ネサワルコヨトル・トラコパン王トトキルワストリの三者同盟は強固なものであり、特にテスココ王のネサワルコヨトルは法治システムや征服した領内の旧支配者を復位させて間接統治するシステムの整備、さらにはテスココ湖内の堤防建設などによってアステカの基礎を固めるのに大きな役割を果たした。

1440年、イツコアトルの後を継いでモクテスマ1世即位する。モクテスマ1世はまず南に隣接する地域(現在のモレロス州やゲレーロ州北部)などの支配を固めるとともに、ネサワルコヨトルの支援を得てテスココ湖を南北に分断する堤を築いた。この堤によってテスココ湖の水位調節がうまくいくようになったほか、テスココ湖中部のテノチティトラン周辺の湖水の塩分濃度を下げ、農業用水の確保も可能になった[7]。統治が固まると、モクテスマ1世は遠征を頻繁に行い、メキシコ湾岸の熱帯地方を占領・従属させて勢力を拡げた(花戦争)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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