アステカ
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スペインのアステカ征服1521年8月13日

通貨多様
先代次代
テノチティトラン
en:Tlatelolco (altepetl)
en:Tlacopan
en:Azcapotzalco (altepetl)
en:Colhuacan (altepetl)
en:Texcoco (altepetl)
en:Chalco (altepetl)ヌエバ・エスパーニャ

アステカ(Azteca、古典ナワトル語(英語版): Azt?cah)は、1428年頃から1521年までの約95年間北米メキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明国家メシカ(古典ナワトル語: m?xihcah メーシッカッ)、アコルワテパネカの3集団の同盟によって支配され、時とともにメシカがその中心となった。言語は古典ナワトル語(ナワトル語)。
名称

「アステカ」という名称は19世紀はじめのアレクサンダー・フォン・フンボルト(ドイツの博物学者兼探検家である)が民族の伝説上の故地であるアストランに由来して名付けた造語である。言語・地理・政治・民族・土器の種類などさまざまな意味を含むが、範囲としてもメシカのみを指す場合もあれば、メキシコ盆地のすべての人を指す場合もあれば、ナワトル語話者すべてを指す場合もあれば、アステカ三国同盟を指す場合もあれば、マヤオアハカ州の住民を除くメソアメリカすべての人々を指す場合もある。より明確にするために以下のような語を用いることがある。

地理的名称としては中央メキシコ、またはその中のメキシコ盆地など

民族名としてはナワ族、またはその一部であるメシカ(ただし「ナワ」は研究者による呼称であり自称ではない)

言語名としてはユト・アステカ語族ナワ語群、またはその一部であるナワトル語

歴史詳細は「アステカの歴史(スペイン語版、英語版)」を参照
建国

歴史的には、アステカ人の移動と定住は12世紀ごろより続いた北部からのチチメカ人の南下・侵入の最後の1章にあたる。アステカ神話によればアステカ人はアストランの地を出発し、狩猟などを行いながらメキシコ中央高原をさまよっていた。やがてテスココアスカポツァルコクルワカン、シャルトカン、オトンパンなどの都市国家が存在するメキシコ盆地に辿りつき、テスココ湖湖畔に定住した。1325(または1345)年、石の上に生えたサボテンに鷲がとまっていることを見たメシカ族は、これを町を建設するべき場所を示すものとしてテスココ湖の小島に都市・テノチティトランを築いた。その後、一部が分裂して近くの島に姉妹都市・トラテロルコを建設したとされる[1][2]
アスカポツァルコの属国としてアステカの神殿(メキシコ州)アステカのイーグル戦士の彫像アステカのジャガー戦士スペイン征服時のメキシコ盆地アステカ神話を題材としたメキシコの国章

アステカはメキシコ盆地の最大勢力であるテパネカ族の国家アスカポツァルコ朝貢してその庇護を受けていたが、1375年アカマピチトリはアスカポツァルコ王国の許可を得て国王トラトアニ)に即位し、世襲の王族となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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