アジア人追放事件_(ウガンダ)
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アミンの以前の支持者の中には、彼が夢の中でアッラーがインド人を追放するように伝えたのだと彼が主張していたことをほのめかしており、同様にタンザニアに侵攻するための武器の提供を拒否したイギリスに対する報復として構想されたものであるという主張をする者もいる[11] 。アミン自身はこの追放をウガンダをウガンダ人の下へ取り戻すものだと主張して正当化した。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}我々は普通のウガンダ人が自身の運命の支配者となることを決めた。何にもましてウガンダ人が自分の国の富を享受できるように。我々が審議している政策は、ウガンダの経済に対する支配を、我が国の歴史上初めてウガンダ人の手に移すことだ。—イディ・アミン、Uganda: a modern historyより[3]
影響

アミンの法令は即座に非難を浴びた。非難した国の一つであるインドはウガンダと断交した。インド政府はウガンダに対して悲惨な結果が訪れると警告したが、アミンのウガンダ政府が最終的に警告を無視した時には何の行動もとらなかった[12]。イギリスは前年に用意された1000万ポンドの貸付を凍結した。アミンはこれに対して単に肩をすくめただけであった[2]

多くのインド人はイギリスおよびその植民地の市民であり、その後27,200人の難民がイギリスに移住した。6,000人とされる他の難民たちがカナダへ行き、4,500人が最終的にインドにたどり着き、そして2,500人が隣接するケニアへ向かった。マラウィパキスタン西ドイツそしてアメリカ合衆国はそれぞれ1,000人の難民を受け入れ、より少数がオーストラリアオーストリアスウェーデンノルウェーモーリシャス、そしてニュージーランドへ移住していった。約20,000人の難民が行方不明となった[3][13]。僅か数百人程度だけが現地に残留した[2]

新たに導入された移民割り当てを拡大することを嫌い、イギリス政府はイギリス海外領土へ彼らを移住させることへの合意を求めていた。だが、積極的な反応を返したのはフォークランド諸島だけであった[14]ケニアタンザニアは両者ともウガンダとの国境を封鎖し、難民の流入防止を図った[2]

追放された人々の中にはニザール派ムスリムがいた。ニザール派のイマーム、アーガー・ハーンは長年の友人であるカナダ首相ピエール・トルドーに電話をかけた。トルドー政権は数千人のニザール派のカナダへの移住を許可した[15]。ウガンダからのアジア人脱出は、アミンから国連事務総長クルト・ヴァルトハイムへの電報の後、新たなレベルの緊急性が生まれた。この電報においてアミンはヒトラーのユダヤ人への取り扱いへの賛同と空輸計画を示していた[2]

インド人追放の前、アジア人たちはウガンダで規模の大きいビジネスを数多く手がけていたが、彼らはウガンダの経済から事実上完全に排除された。総計でおよそ5,655の企業、牧場、農地(farms)、そして農場(agricultural estates)が、車や家、その他の家庭用品と共に再分配された[3]。政治的理由から大部分(5,443)が個人に分配され、176が政府機関に、33が半政府系組織に、2が慈善団体に再配分された。恐らく最大の勝者は複数の大企業を支配する国有のウガンダ開発公社(英語版)であったが、急激な膨張と熟練技術者と経営者の突然の喪失は、この企業にとっての手痛い試練となったことが、1974年から1975年にかけての部門再編という結果によって証明された[3]。「ウガンダ経済は内戦の被害、特定の産業の国有化、そしてこのアジア人追放の下で破局の中へ深く落ち込んだ...。1987年までに、ヨウェリ・ムセヴェニ大統領はアフリカで最も低い成長率に苦しむこの経済を引き継いだ[16]。」
ポピュラー・カルチャー

1976:ボリウッド映画、 Charas
(英語版):ウガンダからのインド人追放に関するパイロット・プロットがある。

1981:シェアード・パテルの映画、食人大統領アミン:ウガンダから他国へのアジア人追放を引き起こした実際の出来事を描いている。

1991: ミーラー・ナーイルの映画、Mississippi Masala(英語版):インド人追放に伴う混乱の中でウガンダから脱出し、ミシシッピに住み着くインド人家族の物語を描いている。

1998:この追放は、小説The Last King of Scotland(英語版)と、その後の2006年の映画化作品でも描かれていた。

2006:この追放の余波は、テレビシリーズのLife on Mars(英語版)のepisode 2.6(英語版)の背景として参考にされた。

2008:この出来事はシェナーズ・ナンジ(英語版)のヤング・アダルト小説Child of Dandelionsの主要テーマであり、この小説はカナダの権威あるカナダ総督賞(英語版)の最終選考に残った。

2012:アジム・ピャラリ・フセイン・ソマニ(英語版)の回顧録Shattered Lives(英語版)は、追放40周年を記念するITVドキュメンタリーで特集された。

関連項目

反インド感情
(英語版)

インド系移民と在外インド人

南東アフリカにおけるインド人ディアスポラ(英語版)

脚注^ a b“1972: Asians given 90 days to leave Uganda”. British Broadcasting Corporation. (1972年8月7日). ⇒http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/august/7/newsid_2492000/2492333.stm 2016年10月29日閲覧。 
^ a b c d e f g h i j k l m n o p Patel 1972, pp. 12?19
^ a b c d e f g h i j k l m n o Jorgensen 1981, pp. 285?290


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