アサヒビール
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大日本麦酒の分割は、同社を主要ブランドであるアサヒビール(西日本で販売)とサッポロビール(東日本で販売)に分割する形を取ったが、この分割を推進した大日本麦酒の山本爲三郎専務が朝日麦酒の初代社長に就任したため、様々な憶測を呼んだ。山本は大日本麦酒に合併された日本麦酒鑛泉の出身であり、その同社から継承した商品でかつ全国ブランドとして知名度のあったユニオンビールと三ツ矢サイダーの2銘柄を朝日麦酒が継承した他、戦前大日本麦酒は設備投資を西日本に集中して行っていたため、その結果最新鋭設備のほとんどが朝日麦酒の帰属となっていたのがその主な理由であった。

更に西日本では戦前からアサヒブランドが定着していたため、新生アサヒビールも西日本を中心とした需要があった。ビールの市場占有率(シェア)は分割時点において日本麦酒(現・サッポロビール)38.7%、朝日麦酒36.1%、麒麟麦酒25.3%と3社間で2位となり、引き続き1952年まで単独2位、1953年は原料配給の関係で日本・麒麟・朝日のシェアは3社同率の1位[4][5]、1954年は第1位が麒麟、2位が朝日、3位日本麦酒となり、1960年まで同社は2位を維持し[4] 山本も関西財界の重鎮として活躍していた。

しかし、高度経済成長と共に東京への一極集中化が進むと、結局この山本が主導した地域偏重の分割がたたり、市場占有率は1961年に第3位へ降下し、1987年まで3位が定位置となっていた[4]。首都東京では同根で同じくブランド名に馴染みの無いニッポンビール(1964年にサッポロビールと改称)と競合。地元とも言える関西地区でも、後発のサントリーのビール発売に際し山本社長が支援に回ったため結局同一問屋内で競合関係になる負担が発生し、1970年代の生ビール競争も低迷した。

1980年代中盤には市場占有率10%を割り、1985年は9.6%と4位のサントリー(9.2%)に追い抜かれる寸前の状態で社内の状況において危機感は漂っており[4]、1985年までに資産売却が行われたが[6]、経営面で分割以来赤字経験がなかったことから深刻さは薄く、「夕日ビール」などと揶揄される状況でありながら、現状維持で満足する雰囲気もみられた[4]

この状況を改めるため、社長は住友銀行から連続で送り込まれ、過去にマツダを短期間で再建した経験がある村井勉が就任した[4]。村井は就任時から改革に取り組み実を結んだことで社内は活性化し、その中で「主力商品のビールの味とラベルを変更してアサヒの主張と心を知ってもらうべきではないか」との意見が社内で高まったことを受け、正式に主力ビールの味とCIマークの変更が決定された[4]。現状把握のためマーケティングリサーチとして1984年夏?1985年夏に東京と大阪で計2回・5000人に味覚・嗜好調査を行い「若い人を中心に大半の消費者が苦みだけではなく、口に含んだときの味わい(コク)と喉ごしの快さ(キレ)を求めている」との結果を得て、同業他社を含めた従来の主力製品の持ち味「苦味の強い重い味」と異なり、消費者の認識変化で潜在的に求められていた「コク・キレ」をコンセプトに商品開発が進められた[4][7]

1986年(昭和61年)1月21日、改革の一環として進展していたCI活動「ニューセンチュリー計画」の発表が対外的に行われ、新CIマークに変更した。同日「コク・キレ」の味わいと新たなラベルを採用した「アサヒ生ビール」を発表[4]。アサヒ生ビールは同年2月に発売開始[8]。1986年3月、引き続き住友銀行から送り込まれた樋口廣太郎が社長に就任。この時期には、アサヒをサントリーへ売却する話が水面下で行われており、樋口は就任当初同社の清算を行う意図で送り込まれた部分が強かったが、売却交渉にてサントリーが断りを入れるという結末を迎えたことで方向転換することになった[6]。同年中はアサヒ生ビールに集中した積極的な個人・業務向け販促活動と大幅増額した宣伝活動を行い、当時新社長であった樋口も試飲キャンペーンの現場に立つと同時に消費者の意見を聞くなど陣頭指揮を行い、結果的に商品はヒットして同社全体の販売数量は前年比11.9%増の実績を残し、シェアも10.4%と10%台に戻した[4][9]

1986年3月、新商品の開発プロジェクト、コードネーム「FX」を開始[10]。同年6月に試作品が完成し、樋口など役員対象に試飲を実施してFXは高評価を得た。同年2月発売のアサヒ生ビールが好調だったことでFX商品化の最終段階において同社内商品の競合を懸念する声が社内から挙がったが、樋口の判断で「FX」の発売を決定[11]。FXは1987年1月21日に名称「アサヒスーパードライ」として発表され、同年3月17日に首都圏限定で販売を開始し、販売数量の同年目標は年間100万箱としていた[11]。アサヒスーパードライは、当時アサヒで発売されたビール新商品3種類の中でも地味な立場で、発売日前後のマスコミの扱いは小さく簡潔な紹介に留まっていた[4]。しかし、発売後問屋には続々と追加注文が入り、同年4月時点の出荷量で70万箱を達成し、同年5月には同年夏頃に予定していた全国販売を前倒しで開始した。販売目標も400万箱に上方修正し、同年8月には販売予測から生産能力を1年間で5割増加させる設備投資計画を始動。同年11月には販売目標を1200万箱と更に上方修正し、1987年の販売数量実績は1350万箱を達成[4]。スーパードライは1987年12月26日の日経流通新聞「62年ヒット商品番付」[12] で東横綱に選ばれる程のヒット商品となった[4]。1988年には同業他社がドライビールで挑んできたドライ戦争にも勝利を収め、売上高と市場占有率を劇的に回復し、同年のシェアはサッポロを抜き2位に回復[4]。1989年と1990年には積極的な設備投資を行い、1990年代からスーパードライに経営資源を集中し、それに特化した販売戦略と鮮度管理の強化を進める経営戦略が功を奏し[6]1998年平成10年)に日本国内でビールは市場占有率で1位となった(発泡酒を含めたビール類の市場占有率では当時2位)[4]

1990年代後半以降、他社が価格の安さと品質改良で発泡酒の売り上げを伸ばす中、アサヒは「アサヒはドライ一本、ビールのみで勝負します。発泡酒は発売しません」と宣言したこともあった[9][13]。理由として、スーパードライが順調に推移していたことや、発泡酒の開発初期段階で問題点の解消に手間取り、市場に出せる品質に中々達していなかった事情がある[9]。だが、デフレの流れで発泡酒のシェアが伸びる中、その間毎年のように同社が新発売したビールの新製品が不振であったことや、看板商品のスーパードライも売り上げに翳りが見え始めたこと、発泡酒開発当初の試作品が抱えていた特有の匂いと雑味の問題点を大麦エキスと海洋深層水を使用することで解消した。品質を満たした商品が出来上がったことで方針転換し「発泡酒カテゴリーが成立したから」と理由を説明して2001年(平成13年)2月に「本生」で発泡酒市場に参入した[9][13]。本生が好調だったことで2001年の発泡酒シェアにおいて同社は2位となり、日本の2001年ビール類(当時はビールと発泡酒が該当)シェアにおいてキリンを抜き1953年以来48年ぶりに首位に返り咲いた[5][9][14]

その後は発泡酒の増税もあり、2005年(平成17年)からいわゆる第三のビール市場にも参入。ただ、シェア競争の結果、2006年(平成18年)1-6月期にて6年ぶりにキリンビールに市場占有率首位を譲る形となったが、下半期に巻き返し、年間では僅差で首位を維持した。

鳥居薬品を1987年(昭和62年)に子会社化したが、1998年(平成10年)にJTへ保有株式を譲渡。

2001年(平成13年)、かねてから資本関係があったニッカウヰスキーの全株式を取得した上で同社を完全子会社化し、ウイスキーブランデーなどの洋酒事業に本格参入した。また、2002年(平成14年)には協和発酵(現:協和キリン)旭化成の酒類事業(清酒を除く)を引き継ぎ、焼酎などの分野にも参入している。

大手ビール4社の中では唯一最後まで事業持株会社制度を堅持していたが、社会情勢の変化もあり、2011年(平成23年)7月1日付で事業会社を分離新設し、純粋持株会社制度に移行した。
沿革

1889年 - 鳥井駒吉大阪府大阪市で「大阪麦酒会社」設立。


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