アサヒビール
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1889年 - 鳥井駒吉大阪府大阪市で「大阪麦酒会社」設立。

1891年 - 大阪府島下郡吹田村(現・吹田市)に「吹田村醸造所」竣工。

1892年 - 「アサヒビール」発売。

1900年 - 日本初のビン入り生ビール「アサヒ生ビール」発売。

1906年 - 大阪麦酒(アサヒビール)、札幌麦酒(サッポロビール)、日本麦酒(エビスビール)の3社合同で「大日本麦酒株式会社」を設立。

1949年 - 過度経済力集中排除法により大日本麦酒を分割、「朝日麦酒株式会社」を設立。

1957年 - ビン入りラガービール「アサヒゴールド」発売。

1958年 - 日本初の缶入りビール「アサヒゴールド(缶)」発売。

1971年 - 日本初のオールアルミ缶ビールを発売。その缶を製造した昭和アルミニウム缶に素材開発・供給の面で協力。

1981年 - 医療法人十全会[注釈 1]が株式を買い占める。直後に株を放出し、その株を旭化成が買い取って同社が筆頭株主となり、業務提携も行う。

1986年1月21日 - CI活動「ニューセンチュリー計画」の発表と新シンボルマーク導入。永井一正がロゴデザインを担当、右上がりで勢いとキレのあるイメージとした[15]

1987年3月17日 - 日本初の辛口生ビール「アサヒスーパードライ」発売。

1989年

「アサヒビール株式会社」に商号を変更。創業時から販売されてきた熱処理されたラガータイプのビール「アサヒビール(オリジナル)」販売終了。

東京都墨田区吾妻橋の旧吾妻橋工場跡地に「アサヒビールタワー」完成。


1996年 - 清涼飲料水部門が「アサヒ飲料」として分社独立。

2001年

発泡酒「アサヒ本生」(現本生ドラフト)発売、発泡酒事業に参入。

ニッカウヰスキーを完全子会社化。

缶チューハイ「ゴリッチュ」発売、チューハイ事業に本格的に参入。


2002年

沖縄のトップブランド、オリオンビールと包括的業務提携を結ぶ。

協和?酵工業(現:協和キリン)の酒類事業(かのか・大五郎・カクテルパートナーなど)と、旭化成の酒類事業部門(ハイリキ・旬果搾りなど)を譲受。協和?酵工業と合弁で新会社「アサヒ協和酒類製造株式会社」を設立。


2004年

ペットボトル入りビールの発売を予定していたが、延期を発表。

韓国のヘテ飲料を買収することで合意したと発表。


2005年

協和?酵工業との合弁契約満了に伴い、アサヒ協和酒類製造[注釈 2]を完全子会社化。

ビール風味の新アルコール飲料 (いわゆる第三のビール) 「アサヒ新生(しんなま)」(後に新生3)発売。

チルド飲料メーカー・エルビーカネボウフーズから買収。

ロッテと共同投資するため韓国からのロッテアサヒ酒類が設立。


2006年

ベビーフードメーカー・和光堂第一三共から買収。

「新生3」に続く第三のビール「アサヒぐびなま。」「アサヒ極旨(ゴクうま)」発売。


2007年

和光堂を完全子会社化。

大手食品メーカー カゴメと業務・資本提携、「トマーテ」発売。


2008年

アサヒ飲料を完全子会社化。

フリーズドライ食品メーカー天野実業を買収。

本店所在地を吾妻橋本部ビルがある東京都墨田区に変更。

3月 - 第三のビール「クリアアサヒ」発売。同系列のアルコール飲料で初の大ヒット商品となる。


2009年4月 - オーストラリアの清涼飲料メーカー(同国2位)のシュウェップス・オーストラリアを、キャドバリーグループから買収。

2010年

アサヒビールグループの統一コーポレートスローガン「その感動を、わかちあう。」を制定。アサヒビール・アサヒ飲料・アサヒフード&ヘルスケアの3社でこのスローガンを使用する。

オーストラリアの清涼飲料メーカー(同国3位)のピー・アンド・エヌ・ビバレッジズ・オーストラリア(P&N)を、創業者一族から買収。

韓国のヘテ飲料を売却。


2011年

3月11日 - 東北地方太平洋沖地震東日本大震災)発生、福島工場が被災。スタイニーボトルシリーズが製造中止となり、後に製造・販売を終了。

7月1日 - アサヒグループホールディングス株式会社に商号変更。同時に、会社分割により酒類事業を子会社の(新)アサヒビール株式会社に承継させて、持株会社制に移行。


2022年

1月1日 - アサヒグループ再編に伴い、アサヒグループジャパンの子会社となる[16]

10月15日- 佐賀県、鳥栖市と進出協定を締結[17]


2023年

1月31日 - 神奈川工場と四国工場の操業終了(予定)[18]


2024年

3月 - 子会社ニッカウヰスキーの西宮工場の操業終了(予定)[18]


2026年

博多工場について鳥栖工場を新設して移転予定[18][17]


歴代社長

初代 山本爲三郎

二代目
中島正義

三代目 高橋吉隆

四代目 延命直松

五代目 村井勉

六代目 樋口廣太郎

七代目 瀬戸雄三

八代目 福地茂雄

九代目 池田弘一

十代目 荻田伍

十一代目 泉谷直木

十二代目 小路明善

十三代目 平野伸一

十四代目 塩澤賢一

十五代目 松山一雄

ブランドの由来

大阪麦酒が名付けた「朝日(アサヒ)」というブランドの由来については諸説あるが、創業者・鳥井駒吉の出身地である堺市に縁のある以下の説がよく知られる。なお、設立当初は「朝日麦酒」ではなく「旭麦酒」と表記されていた。
「旭館」説
寛政から天保年間にかけて堺港の修築工事が行われ、これと並行して竪川の南側一帯に新地が形成された。栄橋や龍神といった遊里の西を流れる旭川(内川の分流のひとつ。1956年埋立)より西側は旭町と名付けられ、堺港に南面する風光明媚な場所として賑わい、中でも「朝日ノ家」は堺屈指の茶屋として知られた。その「朝日ノ家」が閉鎖された後、堺の酒造組合の代表であった鳥井が1888年明治21年)、堺の酒造業者と政府の高官や財界人との交遊をはかる目的で、同地に社交倶楽部「旭館」を開設した。「旭館」は「朝日ノ家」から名付けたものだが、新たにビール事業に参入する際にも、この「朝日・旭」ブランドを重用し「旭麦酒」と命名した。
「旭橋」説
鳥井の生家(現・堺市堺区甲斐町西2丁)から目口筋を西進すると旭川に架かる「旭橋」に至り、自らの酒造業者としての原点を忘れないという思いを込めて「旭麦酒」とした。その後、旭川は埋め立てられて「旭橋」も撤去されたが、「旭橋」は天誅組の上陸地であり、もとの架橋地点に「堺事件」の碑と「天誅組上陸地」の碑に並んで「旭橋」の橋柱一対が保存されている。また、鳥井の生家跡から北東に進んだ場所にある「ザビエル公園」内に「旭橋」のもう一対の橋柱が保存されている。
小西儀助からの譲渡説
明治17年からビールを製造していた、小西儀助商店からブランド名を譲ってもらったとの説もある。
大阪麦酒のブランド名「旭」は、1884年(明治17年)から大阪で朝日ビールを発売していた薬種問屋の小西儀助が、1888年(明治21年)に鳥井駒吉らの計画を知ると、自らビール事業から手を引くことを決め、そのブランド「朝日」を設立予定の大阪麦酒に譲り、同社はこれを「旭」として引き継いだ、ともいわれている。[19]また、小西儀助が大阪麦酒の役人に「もし御入用やったらうちの商標を使うておくれやす」と言ったという、大日本麦酒大阪支店の大森寅之進の聞書による記録もある。[20]
主な商品

オリオンブランドの製品についてはオリオンビールの項も参照。
ビールアサヒスーパードライ:画像は2000年 - 2013年までの缶製品の意匠。なお、2024年 - 2021年まで製造・出荷された缶製品の意匠はレッテルの右下部分に「お酒」と丸で囲ったマークが追記され、「KARAKUCHI」は「KARA辛口KUCHI」に、レッテルの上部分の英字は「THE JAPAN BRAND」とそれぞれ改められ、さらに「Asahi」ロゴの枠線が取り除かれた。
アサヒスーパードライ
詳細は「アサヒスーパードライ」を参照1987年3月発売。「辛口(KARAKUCHI)」を前面に出し、日本のビールの味を変えた製品とも言われる。日本のビール類で、唯一年間販売量1億箱(1箱=ビール大びん20本=12.66リットル換算)を超え、2008年には350ミリリットル (ml)缶に換算して発売からの累計出荷総数が1000億本を突破した最大のブランド。競合他社が発泡酒や、いわゆる新ジャンルなどの分野にシフトしたこともあり、税法上のビールでは、過半数のシェアを占めている。使用酵母・発酵技術を改良して発酵度合いを高め、糖度を低くし、麦芽以外の副原料(コーンスターチ)の比重を比較的多めにし、更にアルコール度数を当時主流の4.5%前後よりやや高い5.0%としたことで、いわゆる「ドライ・辛口」な味に仕上げた。スーパードライがヒットした後、1988年に競合他社も一斉にドライビールを発売し、当時の通常新商品と比べ高い売上を記録したが、自社内の他商品と競合状態となったことや「ドライビール=アサヒスーパードライ」のイメージが消費者にて形成されていたことで、他社がドライビールを宣伝しても客は元祖のアサヒに流れてしまい、逆にスーパードライの躍進に拍車をかける結果となった[4]。「生ビールNO.1アサヒスーパードライ」のコピーが影響し、キリンラガーは1996年に非熱処理化(生ビール化)が行われたが、翌年の1997年にはキリンラガーが前年まで45年間保ってきた年間首位銘柄から転落し、新たにスーパードライが年間首位銘柄となった[21]1990年代以降モルソン(カナダ)・青島ビール(中国)などとの合弁で日本国外展開も進められている(詳細はアサヒスーパードライ#日本国外展開を参照)。1998年には小型瓶ビール「アサヒスーパードライスタイニー」が発売。2007年には「スーパードライ」発売20周年を記念して、350mlのスリムボトルも期間限定で発売された。沖縄県・鹿児島県奄美群島向けの一部は2003年5月よりオリオンビール株式会社に製造・販売を委託している。
アサヒスーパードライ -ドライブラック- (黒ビール
2012年4月3日発売。これまでになかったドライビールの黒ビール版として登場した。また同社での「スーパードライ」ブランドの横展開商品第1号になった。2022年4月時点では『アサヒ生ビール 黒生』の復活と入れ替わる形で缶製品が終売し、業務用樽詰のみ販売を継続している。
アサヒスーパードライ -ドライプレミアム-
2013年6月にギフト専用商品として販売して好評だったことから、2014年2月18日から通年での販売を開始。アルコール度数は当初は5.5%だったが、通年販売になってからは6%に引き上げた。醸造工程でひと手間かけた“贅沢醸造”に“スーパードライ酵母”を 採用。深い味わいと爽快で澄み切ったキレ味が特徴。スーパードライシリーズでは初となるプレミアム級の生ビール。
アサヒスーパードライ -ドライプレミアム 香りの琥珀-
2014年11月5日に歳暮ギフト専用商品として発売。「ドライプレミアム」の持つ贅沢な“コク”と“キレ”という特長はそのままに、7種類の厳選したホップと黒麦芽由来の麦芽エキスを原材料の一部に使用することで、奥行きのある芳醇な香りを実現したプレミアムビール。アルコール度数は5.5%。
アサヒドライプレミアム豊醸
2016年4月12日発売。スーパードライ -ドライプレミアム-シリーズの実質的な後継商品で、アルコール度数は6.5%。
アサヒスーパードライ -ドライクリスタル-
2023年10月11日発売。日本国内のビール類市場における酒税改正に伴うビール減税によりビールへの回帰が進んでいることや、その一方で1990年代後半以降に生まれた若年の大人を中核としたアルコール飲料離れなどの風潮を背景に開発されたスーパードライシリーズ初のライトビール。冷涼感が特長のドイツ産ホップ「ポラリス」を一部使用するとともにオリジナルのスーパードライよりも発酵度を上げることで、透明感のある味わいと本格的な飲みごたえを実現した。アルコール度数は3.5%[22]
アサヒ生ビール〈マルエフ〉(1期:1900年 - 1941年、2期:1959年 - 1985年、3期:1986年 - 2021年、4期:2021年 - )
1950年代後半以降に復活し、発売当初は「アサヒ本生」と称していた。1986年1月21日発表、アサヒ生ビールの味とラベルをリニューアル、2月発売開始。市場調査を元に「コク・キレ」を特徴とした味わいに変更し、当時の開発コードは「まるえふ(まるの中にF)[23]」で、通称は「コクキレビール」だった[24]プロゴルファー青木功尾崎将司を起用したテレビCMの宣伝文句「コクがあるのに、キレがある」でヒット。翌年に発売された「スーパードライ」のヒットに繋がったが、1990年以降からは「スーパードライ」に経営資源を集中する方針に伴い、1993年に一般消費者向けを含む小売量目の生産を中止。一部の料飲店向け樽生製品(いわゆる業務用)として長らく吹田工場において生産が続いていた(北海道九州では販売終了)が、扱う店舗は東京都内でも ⇒BIER REISE'98 など数店舗[23] となっており、他の地域でも見かけることは非常に少なかった。以前はウェブサイトでは紹介されていなかったが、2012年3月頃より、商品情報の「樽詰商品」に掲載され、2012年6月に再び掲載されなくなっていた。2018年に ブランドサイト が開設され、販売を再び全国に拡大することになり、生産は福島工場と四国工場が行うことになった(プレスリリース・2018年3月13日)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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