アサヒスーパードライ
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これにマッチする味は辛口という仮説が生まれ[20]、新ビールのコンセプトは「辛口・生ビール」とした[54]

1986年3月、コードネーム「FX」として開発プロジェクト開始[49][注 11]。苦味を抑え、甘さも少なくしたビールを目指した[8]。開発の最初はレシピ作成からで、コンセプトに合う酵母を同社の酵母バンクから探した結果、発酵能力がズバ抜けて高く独特の香味特性を備え、コンセプトに適合していた「アサヒ318号酵母」に決定[54]。次に原材料の種類・使用比率や発酵条件など様々な条件や組み合わせを細かく設定しながら試作して、コンセプトを満たす必要条件を決め込んでいった[54]。アルコール度数は当時の一般的なビールの度数4.5%に対し、5%と高めにしてスッキリとした味わいを出した[55]。出来上がった数々の試作品と共に様々な和食洋食中華料理つまみを用意して、実際の飲食シーンに近い状況で試飲を多数繰り返した結果、コンセプトに合致する味に到達した[54]。3ヶ月後の同年6月、試作品が完成し、当時の社長である樋口廣太郎など複数の役員を対象に試飲を実施し、高評価を得る[9]。商品化の最終段階では、前年に発売した新アサヒ生ビール (コクキレビール) が好調であったため、自社製品である新アサヒ生ビールとの競合を懸念する声が社内から挙がったが、樋口の判断で1987年3月17日に名称「アサヒスーパードライ」として地域限定で販売開始[9]。販売開始年には年間100万箱を目標としていた[9]
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『スーパードライ』のネーミングに用いられた「スーパー」は、根拠も無く商品を優れていることを誇示し、優良誤認のネーミングで「ビールの表示に関する公正競争規約」に違反していた。アサヒも当初から違反を認識していた。そこで、銀行から派遣されていた当時の所長が、大蔵省から天下っていた副所長に大蔵省への工作を命じた。大手ビール会社の業界団体であるビール酒造組合が大蔵省へ、公正取引委員会の裁定を仰ぐことを事前に相談に行った。すると、大蔵省はビール酒造組合に対して、事を荒立てずに更に話し合うようにと指導した。アサヒビールの工作が功を奏し、『スーパードライ』は使われ続け、後にアサヒは、「スーパーイースト」も発売した。

『スーパードライ』のヒットを受け、この状態に歯止めをかけるべく競合3社も追随して、翌1988年1月にドライビールの発売概要を発表。これに対し、アサヒは1月に知的所有権侵害の問題として「名称・ラベルが『スーパードライ』に似すぎており消費者に誤解を与える」という抗議文を内容証明でキリンとサッポロビール(以下「サッポロ」)に送付するなど、ドライビールの名称について議論(ドライ論争)が行われたが、競合各社が名称変更しアサヒ側が譲歩したことで同月中に収束した。この論争が加熱して新聞などで報じられたことで、ドライビールに関する消費者の認知度が高まった。2月以降、各社からドライビールが発売された。他社のドライビール発売が『スーパードライ』新発売から約1年遅れた理由として、ビール新商品の開発・試作・生産には時間が掛かることや、1980年代において主力新商品の発売は本格シーズン到来前の春が恒例であったことが挙げられている。アサヒ以外の3社の動向は次の通りだった。
キリンビール
1988年2月22日に『キリンドライ』(CMに俳優のジーン・ハックマンを起用し、CMソングにはミュージシャンの鈴木雅之を起用)、1989年4月に麦芽100%のオールモルト生ドライビール『キリンモルトドライ』を発売。販売数量はキリンドライが1988年4000万ケース、1989年1750万ケースで、モルトドライが1989年350万ケース。しかし『スーパードライ』の独走を止めることはできず、1988年にはそれまで維持していた日本国内シェア50%を割っている。
サッポロビール
1988年2月26日に『サッポロドライ』(CMに吉田拓郎広岡達朗石田えりを起用)を発売。販売数量は1988年2300万ケース、1989年950万ケース。しかし、それまでの同社のファンからは不評で発売2年足らずで生産を中止。さらにドライ感を強めた『サッポロハーディ』や『サッポロクールドライ』を1989年に発売するも、短期間で生産を終了している。
サントリー
1988年2月23日、『サントリードライ』を発売。販売数量は1988年1300万ケース、1989年750万ケース。差別化戦略としてアルコール度数を5.5%に高めた『サントリードライ5.5』も発売し、CMにボクサーのマイク・タイソンを起用したことが話題になった。販売数量は1988年200万ケース。その一方『モルツ』のCMでは「私はドライではありません」と謳っていた。1989年には二条大麦と六条大麦のダブルモルトを使用した麦芽100%ドライの『冴』を発売し、こちらは和風のイメージで差別化を図った。

各社が発売したドライビールは想定以上の需要が押し寄せ2月下旬には品不足状態となったが、アサヒは前年から需要拡大の販売計画を立て供給力に余裕があったことから、他社の潜在需要も在庫があった『スーパードライ』に流れた。さらにアサヒは生産能力の向上に努め、『スーパードライ』に傾斜した生産体制をとり、他社も独走体制の阻止を図るためにドライビールの生産増強や販促・宣伝活動に注力した。この状態をマスコミは「ドライ戦争」と表現して盛んに用いた(前述)。

ビール業界の間では、前述のように先々を見据えた展開を行ったアサヒがドライ戦争の勝者となると序盤戦から予想されていた。同年6月27日、アサヒは新聞各紙において『スーパードライ』の広告掲載を行い、「この味が、ビールの流れを変えた。」の表現が事実上の“ドライ戦争の勝利宣言”と捉えられて大きな反響を呼んだ。

同年夏の需要期にはアサヒを含めた各社ドライビールの品薄状態が目立つようになっていたが、夏商戦も引き続きアサヒが有利に展開した。その結果が明らかになり始めた8月終盤から新聞において「ドライ人気は一時的」「ドライ人気に秋風!?」「ドライにかげり?」といった見出しが目立つようになり、競合他社はドライビールは一過性のブームと捉えていたことから、同年後半はドライ偏重戦略を改めて従来の主力商品に力を入れたり、新たな次期主力商品を模索し始めるなど、アサヒ以外の各社はドライビール戦争から戦線離脱した状態となった。

他社が発売したドライビールの売上で1988年は従来の新製品と比べると好調の部類に入り、1988年のドライビール市場は1億5000万ケースの規模となり全ビール市場における割合は前年の3%(アサヒのみ)から34%(全社合計)と急上昇した。一方でドライ以外の銘柄が売上低下する共食い現象も発生したり、前年に「ドライビール=スーパードライ」のイメージが消費者にて形成されていたことで、他社がドライビールを宣伝しても客は元祖の『スーパードライ』に流れる状況となっていた。


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