アグネス・チャン
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1973年7月発売の「草原の輝き」が大ヒット、同年12月に第15回日本レコード大賞新人賞を受賞。

1973年10月発売の「小さな恋の物語」が自身最大のヒット曲となり、初のオリコンチャート1位を獲得した。

1973年大晦日、『第24回NHK紅白歌合戦』に「ひなげしの花」で初出場。その後も1974年第25回1975年第26回まで、『NHK紅白歌合戦』へは3年連続3回出場した。

アグネスの大成功で、日本の芸能事務所レコード会社は、以降、香港、台湾ベトナムなどの東南アジアから美少女を探し出して日本に連れて来た[5]

1974年3月、「草原の輝き」が春の選抜高等学校野球大会入場行進曲に選ばれる。また、ブロマイドの売上成績第1位を獲得。3月、松本隆は作詞、キャラメル・ママが演奏で参加した4thアルバム「アグネスの小さな日記」が発売された[注 1]。6月、アルバムから「ポケットいっぱいの秘密」がシングルカットされた。8月、キャラメル・ママを中心に、高橋幸宏矢野誠矢野顕子ら参加でアルバム「あなたとわたしのコンサート」も発売された。1974年、上智大学国際学部に入学。

1975年8月、20歳の記念曲として荒井由実作詞・作曲の「白いくつ下は似合わない」を発売。この頃のコンサートではバックバンドに鈴木慶一とムーンライダースに矢野顕子、司会は植田芳暁を起用していた。7月、アルバム「ファミリーコンサート」発売。また、12月にはハイ・ファイ・セットシュガーベイブから山下達郎大貫妙子村松邦男がコーラスで参加のアルバム「はじめまして青春」が発売された。

1976年4月、ムーンライダースと一緒に作ったアルバム「MeiMei」を発売。また、シングル「恋のシーソーゲーム」ではホットケーキがバックを務め、さよならコンサートなどのコンサートに参加した。同時期ラストショウもたびたび参加している。父の勧めもあって、1976年に芸能活動を休んでカナダトロント大学へ留学(編入学)。社会児童心理学を専攻。

1977年カナダ留学中、シングル3枚、アルバム3枚を発売。5月、6月に日本でコンサートを開催。

1978年、トロント大学を卒業。同年8月に日本に戻り、吉田拓郎作曲の歌「アゲイン」で芸能活動を再開する。復帰コンサートツアーのひとつとして、中国人歌手としては初となる日本武道館でのコンサートも行った。レコード会社は次の「やさしさ知らず」からSMSに移籍。

1979年香港で、初の広東語アルバム『雨中康乃馨』を発売。日本ではゴダイゴとのコラボレーションアルバム『AGNES IN WONDERLAND 不思議の国のアグネス』と『ABC Agnes』を発売。

1984年国際青年年記念平和論文に応募し、特別賞を受賞。フジテレビなるほど!ザ・ワールド』の主題曲「愛のハーモニー」から徳間ジャパンにレコード会社を移籍。

1985年、芸能活動のみでなく、ボランティア活動を再開するようになった。4月、北京首都体育館で5万4千人を動員して宋慶齢基金会チャリティーコンサートを開催、中国で記念のベスト盤カセットテープが販売された。

同年、日本テレビの『24時間テレビ』のために、旱魃による食料不足状態にあったエチオピアを取材。単に悲惨な情況を伝えるだけでなく、「ロンドン橋落ちた」の替え歌アムハラ語で歌って現地の子供と交流する様子も伝えられた[6]

1986年、元マネージャーの金子力(現所属事務所トマス・アンド・アグネス社長)と結婚し、カナダで長男を出産した。

同年、1985年度の日本女性放送者懇談会賞を受賞[7]

1987年、テレビ局などへ生後まもない長男を連れて行ったことを林真理子が批判した。これを端初にアグネス論争が起こる。翌年、「アグネス論争」が新語・流行語大賞大衆賞を受賞するほどの社会的論争となり、男女雇用機会均等法成立の時期ともあいまって、日本の働く母親、女性の立場を再考させるきっかけとなった。

1988年飛鳥涼(現ASKA)作詞・作曲の歌「LIFE」でポニーキャニオンに移籍。

1989年には、米国スタンフォード大学教育学部博士課程に留学、現地で次男を出産。

1990年、留学の合間をぬって帰国、親子のペアファッション・ブランド、DEAR AGNESを発表。

1991年、著書「幸せなのになぜ涙がでるの」は7万部を越えるヒットとなった。

1992年10月には、東京カザルスホールにて、20周年記念コンサートを行う。

1994年東京大学とスタンフォード大学の卒業生の10年後の姿を調査し、日米両国の男女間格差の実態をまとめ、教育学博士号(Ph.D.)を取得した。この時の論文は『この道は丘へと続く』と題して2003年に日本でも翻訳出版されている。

1994年目白大学の助教授に就任(2008年現在は客員教授)。国際コミュニケーション学を担当する。

1996年、香港にて三男を出産。その後もエッセイスト、共栄大学客員教授として日本全国で講演を続けた。

1998年、初代日本ユニセフ協会大使に就任(後述)。同年、タイの児童買春の現状を視察。帰国後、様々なマスコミを通してその現状を訴え、翌年の『児童買春・ポルノ禁止法』成立の原動力となった。

1999年日本ユニセフ協会大使として、スーダンを視察。帰国後は、子供兵士の実態を報告。2000年には、東西ティモール、2001年には、フィリピンを視察し、紛争の犠牲になった子供たちの実態や児童労働問題を広くマスコミに訴えた。

2000年には日本クラウンに移籍し、ロングヘアをやめてイメージチェンジして、「この身がちぎれるほどに」を歌うなど、ムード歌謡の分野で歌手活動に力を入れるようになった。

2002年、小説『パーフェクト・カップル』、『銃弾の指輪』を出版し、作家活動も開始した。翌年には月刊『すばる』に短編小説の連載もしている。

2003年終戦後のイラク2005年スーダンダルフール地方を訪問し、平和への思いを強くする。

2005年にリリースした、初のセルフカバー曲『草原の輝き2005』はアサヒ飲料十六茶」のCMに使われた。9月に発売された『しあわせの花』は、手話を取り入れた振り付けで歌った。10月には広島大学の主宰する「ペスタロッチー教育賞」の14回目を受賞。

2006年2月、ジャッキー・チェンとのデュエット曲を含む英語盤CD『Forget Yourself』[8]をアメリカで発売した。
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