1960年代では、公民権運動の高まりもあり、白人を善とする勧善懲悪の古典的なハリウッドの西部劇が後退し、イタリア産の西部劇マカロニ・ウェスタンが台頭し始め、三船敏郎主演でリアルな殺陣が注目された日本の時代劇映画『用心棒』(1961年)の影響を受けた『荒野の用心棒』(1964年)や、『夕陽のガンマン』(1965年)などの過激な暴力描写の映画に主演したクリント・イーストウッドが、「モンコ」というニヒルなアウトローの主人公として人気を博した[1]。三船主演の『用心棒』(1961年)は、のちの香港の武侠映画にも影響を与えた[7]。『007 ダイヤモンドは永遠に』(1971年)でのショーン・コネリー
この時期にはスパイ映画も全盛期となり、東西冷戦を背景にしたイギリス映画の「007シリーズ」の1作目『007は殺しの番号』(1962年)から主人公のスパイ「ジェームズ・ボンド」の荒唐無稽で大胆なアクションを演じたショーン・コネリーが世界的な人気を博して一世を風靡した[1][8]。ショーン・コネリー主演の「007シリーズ」はスパイ・アクションの走りとなった[1]。
1960年代の最後には、ウィリアム・ホールデンが強盗団のリーダーを演じ、本家の西部劇の終焉的なヒット作『ワイルドバンチ』(1969年)でのスローモーション撮影を多用した暴力描写が注目され、のちのアクション映画の表現方法に影響を与えた[1]。また『ワイルドバンチ』は三船敏郎主演の日本映画『椿三十郎』(1962年)の影響を受け、ハリウッドの西部劇で初めて血しぶきの描写を取り入れた[9][注釈 3]。
フランス映画では、『リオの男』(1963年)などで危険なアクションシーンをスタントマン無しで演じたジャン=ポール・ベルモンドが人気を博した。 1970年代には、クリント・イーストウッドが『ダーティハリー』(1971年)の刑事でも当り役となり人気シリーズ化した[1]。同じくアクションを多く盛り込んだ刑事ドラマでは、歴史的なカー・チェイスを演じたジーン・ハックマン主演の『フレンチ・コネクション』(1971年)が大ヒットし、ジーン・ハックマンは第44回アカデミー賞主演男優賞を受賞した[1][10]。強盗映画ではスティーブ・マックイーン主演の『ゲッタウェイ』(1972年)も注目された[1]。『特攻サンダーボルト作戦』(1977年)でのチャールズ・ブロンソン イギリス、フランス、イタリアなどで『さらば友よ』(1968年)や『狼の挽歌』(1970年)に主演し世界的に人気を博していたチャールズ・ブロンソンは、久しぶりのハリウッド映画『メカニック』(1972年)で主人公の孤独な殺し屋「アーサー・ビショップ」を熱演した[11]。次のヒット作『狼よさらば』(1974年)では、妻を殺され娘をレイプされた無念のために変貌しニューヨークの街にはびこる犯罪者たちを次々と皆殺しにしていく男を好演し人気シリーズとなった[12]。ブルース・リー(1971年) 一方、香港映画『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)や『ドラゴンへの道』(1972年)で香港の人気アクション・スターとなったブルース・リー主演の『燃えよドラゴン』(1974年)が世界的なヒットとなり、「アチョー」と叫ぶブルース・リーの奇声(怪鳥音)やカンフー映画が世界で大ブームとなった[13][14][1][15]。ブルース・リー 映画の中での印象的な台詞「考えるな、感じるんだ」(Don’t think. Feel.)を発したブルース・リーは、新しい格闘技「截拳道」の創始者でもあり、肉体そのものを駆使する格闘アクション俳優として、のちに活躍するジャッキー・チェンやジェット・リーなどの多くのカンフー・スターの先駆的な存在となっただけでなく、アクションでのマーシャルアーツ(武芸・武術)の重要性を世界的に広めた[13][1][15]。 『燃えよドラゴン』(1974年)の公開直前にブルース・リーが急逝していたことも相まって、より伝説的な人気が世界に巻き起こったが、「ドラゴン」(ブルース・リーの異名)と名の付く映画は生前時から無数に増え続け[2]、ブルース・リーに憧れた若者の多くが武芸などの格闘技の道場に通うようになったり[2]、ヌンチャクを振り回してブルース・リーの真似をするようになった[15]。
1970年代から1990年代
ブルース・リー登場の時代