アクション俳優
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一方、歌舞伎役者から映画俳優になった市川雷蔵は、『斬る』(1962年)で複雑な運命を持つ天才剣士や、『剣に賭ける』(1962年)でも剣士「千葉周作」を好演した後[74][75]、「円月殺法」を持つ刺客を主人公とする『眠狂四郎殺法帖』(1963年)から始まる「眠狂四郎シリーズ」も人気を博し、勝と雷蔵は「カツライス」と呼ばれる大映の二大スターとなった[5][73][76]日本侠客伝 関東篇』(1965年)での鶴田浩二

同時期、任侠映画の元祖と言われた東映のヤクザ映画人生劇場 飛車角』(1963年)で日本の伝統的な任侠の世界を演じ、自己犠牲を惜しまず日本刀で戦う鶴田浩二高倉健のコンビが人気を博した[5][77]。鶴田はその後も「人生劇場シリーズ」や「博徒シリーズ」、「博奕打ちシリーズ」などに主演し、鶴田がヤクザ映画の中で発する「それでもおめえ、日本人か!」という叫びは、いまだアメリカによって半ば占領されている日本の半植民地的な状況や、失われていく日本の精神風土の問題を呼び覚ますような問いが写し出されていた[78]。男の恩義・人情を描き、落とし前をつける日本の任侠映画は、のちの香港映画『男たちの挽歌』(1986年)にも影響を与えた[26]『日本侠客伝 関東篇』(1965年)での高倉健

高倉健はその後の『日本侠客伝』(1964年)から始まる「日本侠客伝シリーズ」や、『昭和残侠伝』(1965年)を1作目とする「昭和残侠伝シリーズ」、『網走番外地』(1965年)から始まる「網走番外地シリーズ」や、『緋牡丹博徒』(1968年)を1作目とする「緋牡丹博徒シリーズ」などでもストイックなヤクザを好演して不動の地位を築き[5][77]、海外でも『ザ・ヤクザ』(1974年)で義理堅い寡黙なヤクザを演じて注目された[5]。東映退社後に検事役で主演した『君よ憤怒の河を渉れ』(1976年)は中国で大ヒットし高倉の中国人気にも繋がり、2010年代には香港・中国のリメイク映画『マンハント 追補』(2017年)も製作された[26]

石原裕次郎に続く日活の新たなスターとしてヤクザ映画『無頼より 大幹部』(1968年)で主演した渡哲也は、朴訥な一匹狼の主人公「藤川五郎」がはまり役となり「無頼シリーズ」も人気となった[79]。また同時期に世界で流行となったマカロニ・ウエスタンのニヒルな人物造型は、原作小説を実写化したテレビドラマ『木枯し紋次郎』(1972年)や、劇画を実写化した映画『子連れ狼』(1972年 ? 1974年)、テレビドラマ『子連れ狼』(1973年 ? 1976年)などにも影響を与え[9]、一匹狼の渡世人「紋次郎」役を演じた中村敦夫や、宿敵の柳生一族への復讐を内に秘めながら幼い息子「大五郎」を連れて放浪する寡黙な「拝一刀」を演じた若山富三郎萬屋錦之介が人気となった[1][9]

東映京都の任侠路線が停滞した後は、実録路線の作風の東映東京で製作された『仁義なき戦い』(1973年)が「仁義なき戦い・シリーズ」化するほどヒットし、鶴田浩二や高倉健の役柄とは全く違う冷酷無比なヤクザを演じた菅原文太や、第二部『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973年)で破滅に向って走る悲壮美を体現した北大路欣也が注目された[80]。シリーズの傍系作品『仁義の墓場』(1975年)や『やくざの墓場 くちなしの花』(1976年)では、日活の俳優だった渡哲也が新たなイメージを開拓し不吉で狂気的なヤクザ役を好演した[80]

ブルース・リーが急逝と同時に『燃えよドラゴン』(1974年)が世界的に一世を風靡した1970年代、香港映画会社ショウ・ブラザーズのオーディションに合格して『帰って来たドラゴン』(1974年)などに出演した倉田保昭空手柔道合気道などの鍛錬を積んだ武道家で、その後に凱旋帰国した日本でもアクション俳優として活躍した[81]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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