『用心棒』(1961年)や『椿三十郎』(1962年)などで三船敏郎と多く共演していた仲代達矢も、主演作『切腹』(1962年)の壮絶な演技で世界的にも注目され、『御用金』(1969年)では適役の丹波哲郎との雪中での死闘を熱演した[66]。『御用金』はハリウッド映画『ザ・マスター・ガンファイター(英語版)』(1975年)で西部劇としてリメイクされた[67]。『大草原の渡り鳥』(1960年)での小林旭(右)と宍戸錠(左)
日活からデビューした石原裕次郎は、『地底の歌』(1956年)、『鷲と鷹』(1957年)などでチンピラ役を好演した[68]。日活の「無国籍アクション映画」と称されたどこの国だが不明な舞台や設定のアクション映画『ギターを持った渡り鳥』(1959年)から始まる「渡り鳥シリーズ」に主演し流れ者を演じた小林旭や、『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』(1960年)を1作目とする「拳銃無頼帖シリーズ」でガン・アクションを演じた赤木圭一郎や宍戸錠らも人気となった[5][69][70][71]。『座頭市物語』(1962年)での勝新太郎
1960年代には、天才的な居合斬りの技を持つ盲目の座頭(按摩師)の「市」というアウトローを主人公とする大映の時代劇『座頭市物語』(1962年)から始まる「座頭市シリーズ」を熱演した勝新太郎が人気を博した[5][72]。アジアやラテン・アメリカでも人気となった「座頭市シリーズ」は、香港の武侠映画に盲目の達人が登場するようになるほどの影響を与えて[73]、シリーズ22作目の『新座頭市・破れ!唐人剣』(1971年)では香港のカンフー・スタージミー・ウォングとのW主演となり、外国人と戦う座頭市も好演した[5][72]。
一方、歌舞伎役者から映画俳優になった市川雷蔵は、『斬る』(1962年)で複雑な運命を持つ天才剣士や、『剣に賭ける』(1962年)でも剣士「千葉周作」を好演した後[74][75]、「円月殺法」を持つ刺客を主人公とする『眠狂四郎殺法帖』(1963年)から始まる「眠狂四郎シリーズ」も人気を博し、勝と雷蔵は「カツライス」と呼ばれる大映の二大スターとなった[5][73][76]。『日本侠客伝 関東篇』(1965年)での鶴田浩二
同時期、任侠映画の元祖と言われた東映のヤクザ映画『人生劇場 飛車角』(1963年)で日本の伝統的な任侠の世界を演じ、自己犠牲を惜しまず日本刀で戦う鶴田浩二と高倉健のコンビが人気を博した[5][77]。鶴田はその後も「人生劇場シリーズ」や「博徒シリーズ」、「博奕打ちシリーズ」などに主演し、鶴田がヤクザ映画の中で発する「それでもおめえ、日本人か!」という叫びは、いまだアメリカによって半ば占領されている日本の半植民地的な状況や、失われていく日本の精神風土の問題を呼び覚ますような問いが写し出されていた[78]。男の恩義・人情を描き、落とし前をつける日本の任侠映画は、のちの香港映画『男たちの挽歌』(1986年)にも影響を与えた[26]。