1950年代後半から1960年代前半には、元ボディビルダーのスティーヴ・リーヴスが『ヘラクレス』(1958年)などのソード&サンダル映画で主演を務め人気を博した。スティーヴ・リーヴスは、のちに活躍するアクション俳優に影響を与え、シルヴェスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガー、ドウェイン・ジョンソンは幼少期に同作を観賞していたことがアクション・スターを目指すきっかけとなった[注釈 2]。『七人の侍』(1954年)での三船敏郎『荒野の七人』(1960年)の主演者(左からユル・ブリンナー、スティーブ・マックイーン、ホルスト・ブッフホルツ、チャールズ・ブロンソン、ロバート・ヴォーン、ブラッド・デクスター、ジェームズ・コバーン)
日本映画では敗戦によるGHQの占領時代が終った後、時代劇やチャンバラ映画が復活・解禁されて『羅生門』(1950年)や、時代劇アクション『七人の侍』(1954年)がヒットし、それらに主演した三船敏郎が世界的にも注目された[4][5]。三船が豪快で子供っぽい偽侍「菊千代」を魅力的に好演した『七人の侍』は、様々な形でのちの多くのアクション映画の原型にもなり[4][6]、ハリウッドでは西部劇『荒野の七人』(1960年)にリメイクされて、ユル・ブリンナー、スティーブ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーンなどがガン・アクションを演じた[5][6]。なお、『七人の侍』と同年には、日本の特撮怪獣映画の嚆矢となった『ゴジラ』(1954年)が製作され人気シリーズ化し、「ゴジラ」(Godzilla)はのちに海外でも人気キャラクターとなっていった[4]。『荒野の用心棒』(1964年)でのクリント・イーストウッド
1960年代では、公民権運動の高まりもあり、白人を善とする勧善懲悪の古典的なハリウッドの西部劇が後退し、イタリア産の西部劇マカロニ・ウェスタンが台頭し始め、三船敏郎主演でリアルな殺陣が注目された日本の時代劇映画『用心棒』(1961年)の影響を受けた『荒野の用心棒』(1964年)や、『夕陽のガンマン』(1965年)などの過激な暴力描写の映画に主演したクリント・イーストウッドが、「モンコ」というニヒルなアウトローの主人公として人気を博した[1]。三船主演の『用心棒』(1961年)は、のちの香港の武侠映画にも影響を与えた[7]。『007 ダイヤモンドは永遠に』(1971年)でのショーン・コネリー
この時期にはスパイ映画も全盛期となり、東西冷戦を背景にしたイギリス映画の「007シリーズ」の1作目『007は殺しの番号』(1962年)から主人公のスパイ「ジェームズ・ボンド」の荒唐無稽で大胆なアクションを演じたショーン・コネリーが世界的な人気を博して一世を風靡した[1][8]。ショーン・コネリー主演の「007シリーズ」はスパイ・アクションの走りとなった[1]。
1960年代の最後には、ウィリアム・ホールデンが強盗団のリーダーを演じ、本家の西部劇の終焉的なヒット作『ワイルドバンチ』(1969年)でのスローモーション撮影を多用した暴力描写が注目され、のちのアクション映画の表現方法に影響を与えた[1]。また『ワイルドバンチ』は三船敏郎主演の日本映画『椿三十郎』(1962年)の影響を受け、ハリウッドの西部劇で初めて血しぶきの描写を取り入れた[9][注釈 3]。
フランス映画では、『リオの男』(1963年)などで危険なアクションシーンをスタントマン無しで演じたジャン=ポール・ベルモンドが人気を博した。 1970年代には、クリント・イーストウッドが『ダーティハリー』(1971年)の刑事でも当り役となり人気シリーズ化した[1]。同じくアクションを多く盛り込んだ刑事ドラマでは、歴史的なカー・チェイスを演じたジーン・ハックマン主演の『フレンチ・コネクション』(1971年)が大ヒットし、ジーン・ハックマンは第44回アカデミー賞主演男優賞を受賞した[1][10]。
1970年代から1990年代
ブルース・リー登場の時代