日本の降伏後、1947年に父アウンサンが、政敵ウー・ソオの部下に暗殺される[10]。以降、ラングーンで元看護師の母親キンチー(en:Khin Kyi)と2人の兄とともに暮らし、母からテーラワーダ仏教の厳しい教育を受けた。
次兄のアウンサンリンが8歳のとき、自宅庭の池で溺死したのち、ラングーン市内のインヤー湖畔に転居した。長兄のアウンサンウー(en:Aung San Oo)は、のちにアメリカ・サンディエゴに移民として移り、アメリカ合衆国の市民権を取得した。妹の政治活動に反対している。 アウンサンスーチーは、ラングーンの聖フランシス修道会学校を経て、ダゴン郡区にあった、ビルマのトップ英語学校メソジスト英語学校(現・ダゴン第一高等学校、en:Basic Education High School No. 1 Dagon
学生時代
1960年に母親のキンチーが、ウー・ヌ政権で駐インド兼駐ネパール特命全権大使に着任すると、スーチーは母とニューデリーに移り、同地のキリスト・メリー修道会学校に通った。
1962年からデリー大学(en:University of Delhi)レディ・スリラム・カレッジ(en:Lady Shri Ram College for Women)で政治学を学び、1964年に卒業。インドでは、ジャワハルラール・ネルーの家族などと親交し、マハトマ・ガンディーの非暴力不服従運動の影響を受けたとされる。
1964年から1967年まで、イギリスのオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジ(en:St Hugh's College, Oxford)哲学政治経済学部(PPE, en:Philosophy, Politics and Economics)で哲学・政治学・経済学を学ぶ。1967年に学士号を取得後、ビルマ政治史担当の助手に就任しヒュー・ティンカー(fr:Hugh Tinker)教授に師事。1968年に同大学を卒業して政治学修士号を取得した。しかし、オックスフォード大学での成績は不振で、2度コースを変更しようとしたもののいずれも失敗し、結局可の評価で卒業したため研究を続けることが困難となった[11][12][13][14]。
しかし彼女はのちに、1990年にオックスフォード大学名誉フェローに選出されている。1993年にオックスフォード大学名誉博士の授与を打診されたものの出国できず断念。その後、2012年に名誉博士号を取得した[15]。 大学卒業後、友人のタンイー(en:Than E
大学卒業後
1972年にオックスフォードの後輩で、当時ブータン在住だったチベット研究者のマイケル・アリス(1946 - 1999)と結婚し、国際連合事務局を退職し、専業主婦となった。1972年から73年までブータン外務省研究員。1973年に長男のアレキサンダー(en:Alexander Aris)を、1977年に次男のキムをもうける。
オックスフォード大学クイーン・エリザベス・カレッジで研究を再開し、1975年から77年までオックスフォード大学ボドリアン図書館編纂研究員を務めた。1985年から87年までロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)で研究生を務め、ビルマ文学とナショナリズムの関係を研究し、1988年にSOASでビルマ文学修士号を取得した[17]。
父の研究をするため、オックスフォード大学で2年間かけて日本語を習得。その後1985年10月から翌年7月までの約9か月間、国際交流基金の支援で京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、大日本帝国軍関係者への聞き取り調査や、外務省外交史料館、旧防衛庁戦史部、国会図書館などでの資料調査を行い、父アウンサン将軍についての歴史研究を進める。当時の受け入れを行ったのは、当時同センター長の石井米雄(前・神田外語大学学長)らである。
シムラーでインド教育省Indian Institute of Advanced Studies(IIAS)特別研究員を2年間務めたほか、ビルマ連邦政府でも勤務した。1986年7月から10月までヤンデネの母を訪ねたのち、オックスフォードに戻った[18]。 1988年3月31日に母が危篤との知らせを受け、病気の母を看護するため4月2日にビルマに戻る。1987年9月の高額紙幣廃止令などをきっかけとして学生を中心に始まった反政府運動(8888民主化運動)は、デモ中の学生が虐殺された3月以降に激化した。7月に1962年の軍事クーデターより独裁政治を敷いていたネ・ウィン将軍・ビルマ社会主義計画党議長が辞任した。
軍事政権との対峙