そののち、ミール・ジュムラーはシャー・ジャハーンに面会するため、妻子ら家族とともにアウラングゼーブのもとを離れ、多数の贈答品を携帯してアーグラへ赴いた[17]。シャー・ジャハーンに面会した際、ミール・ジュムラーはゴールコンダの豊かさを証明するため巨大なダイヤモンドであるコーヒ・ヌールを贈呈し、岩山のカンダハールよりはデカン方面へと兵を進め、コモリン岬まで制圧するよう進言した[18]。シャー・ジャハーンはこの進言を受け入れ、ミール・ジュムラーの指揮の下で大軍を送ることにした[19]。
だが、ここで皇帝の長男ダーラー・シコーがアウラングゼーブに兵力を注ぐことになると反対し、この企てを止めようとした[20]。その結果、アウラングゼーブはデカン総督としてダウラターバードにとどまり戦争に一切関与しない、ミール・ジュムラーを総大将に全権を持つこと、その忠誠を保証するために彼の家族をアーグラに留めおくことが条件とされた[20]。ミール・ジュムラーは仕方なくこの条件を受け入れてデカンへと進み、ビジャープル王国の領土へと入り、カリヤーン(カリヤーニー)の城塞を包囲した[20]。
皇位継承戦争の勃発晩年のシャー・ジャハーン
1657年9月、父帝シャー・ジャハーンが病床に臥すと、帝国内において混乱が起こり、新たなる動乱が始まった[21]。アウラングゼーブを含む息子ら4人による「勝つか死ぬか、王になるか滅びるか、二つに一つ」の皇位継承戦争である[22]。
皇位継承戦争が幕を開けるや否や、長兄のダーラー・シコーはデリーとアーグラで、次兄のシャー・シュジャーはベンガルで、弟のムラード・バフシュはグジャラートでそれぞれ兵を集めた。だが、アウラングゼーブはその性格から慎重に動き、情勢を見たうえで、ミール・ジュムラーとの合流を優先した。
ミール・ジュムラーはカリヤーニーをいまだ包囲し続けていたが、アウラングゼーブはそこに長男スルターンを送り、ダウラターバードに来て合流するように説得を行った[23]。だが、ミール・ジュムラーはアーグラで家族が人質にとられているため、合流して援助することも、味方だと公言することもできないと言い、スルターンは仕方なくダウラターバードへと戻った[24]。それでも、アウラングゼーブはめげずに今度は次男ムアッザムを送り、ミール・ジュムラーの説得に成功した[25]。
その後すぐ、ミール・ジュムラーは籠城軍に更なる攻撃をかけて和議に応じさせ、ムアッザムとともにアウラングゼーブのいるダウラターバードへと向かった[25]。アウラングゼーブは大変喜び、ミール・ジュムラーを「バーバー」(父上)、「バーバージー」(父君)とさえ呼んだ。また、アウラングゼーブはその家族が殺害されぬよう一計を案じて、ミール・ジュムラーを拘束したように見せかけてともに行軍することを提案し、ミール・ジュムラーもこれを了承した[26]。
アウラングゼーブはミール・ジュムラーとの合流に成功してダウラターバードを出たのち、ムラード・バフシュにシンド、パンジャーブ、カシミール、アフガニスタンを与える約束で同盟を結んだ。ムラード・バフシュはグジャラートのアフマダーバードを出て、アウラングゼーブと合流し、兄ダーラー・シコーに対抗しうるかなりの大軍団が出来た。
戦いと即位アウラングゼーブ
1658年2月、アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍は父帝シャー・ジャハーンの派遣した軍勢を破った[27]。
同年4月15日、アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍はダーラー・シコーの軍とウッジャイン近郊のナルマダー川を挟んで戦闘を行った(ダルマートプルの戦い)[28]。戦闘は最初の方はジャスワント・シングの奮闘により、ダーラー・シコー軍の方が優勢だったが、ムラード・バフシュの勇猛さに怯えたカーシム・ハーンが逃げ出すこととなり、ジャスワント・シングも大勢の部下が死亡したことで撤退せざるを得なかった[29]。
ダーラー・シコーはこれに怒り狂い、激しく激怒した彼はミール・ジュムラーが兵力や大砲、軍資金を提供したとして、その息子ムハンマド・アミール・ハーンを殺してやりたいとまで言った[30]。だが、シャー・ジャハーンがなだめようとしたため、これは実行されなかった[30]。
1658年6月8日、アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍は、ダーラー・シコーの軍勢とアーグラの近郊サムーガル平原で激突した(サムーガルの戦い)[31]。この戦いはダーラー・シコーの有利にあったが、ダーラー・シコーの軍で裏切りが起き、そのために軍は壊走してしまった[32]。
その後、アウラングゼーブはアーグラの貴族らを味方につけ、ダーラー・シコーの長男スライマーン・シコーについていた武将ジャイ・シングに帰属を求める手紙を送った。