アウラングゼーブ
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1618年11月3日、アウラングゼーブはムガル帝国の皇子フッラム(のち皇帝シャー・ジャハーン)とその妃ムムターズ・マハルの息子として、グジャラート地方ダーホードで誕生した[2][3]

1622年、フッラムが皇帝ジャハーンギール(祖父)に反乱を起こして敗北したため、その降伏条件の一つとして、兄ダーラー・シコーとともにジャハーンギールのもとに人質として送られた[4]

だが、1627年10月にジャハーンギールが崩御すると、帝国の貴族アーサフ・ハーンによって解放された[5]。のち、1628年2月に父は「シャー・ジャハーン」として即位し、帝国の皇帝となった[5]

1633年6月7日、2頭の戦象の試合中を台覧中、突然一頭がアウラングゼーブの方に向かってきた。だが、アウラングゼーブは逃げずに立ち向かい、象の額に槍を突き刺した[6][7]。象は怒り狂いアウラングゼーブの馬を牙で刺したため、彼は象と地上で戦わなくてはならなくなったが、廷臣らが助けに入り事なきを得た。シャー・ジャハーンは彼を大層褒め、多数の褒美と「バハードゥル」の称号を与えた、と『パードシャー・ナーマ』は記している[6]。このことから、アウラングゼーブは幼少期より勇敢な人物であったことがわかる。

また、アウラングゼーブは若年よりイスラーム教に傾倒し、そのため彼は「ファキール」(貧者)あるいは「ダルヴィーシュ」(托鉢僧)と呼ばれるほどの熱烈なムスリムとなった(ここでのファキール、ダルヴィーシュの意味は神秘的修行者を指す)[8]。アウラングゼーブはアクバル以来の宗教的融和を否定したナクシュバンディー教団のシャイフ・アフマド・シルヒンディーの思想を強く受けていた。この時期、シャー・ジャハーンはヴァーラーナシーの寺院を破壊していたし、帝国の宮廷ではイスラーム復興運動が盛んとなっていた。

一方、アウラングゼーブは全く正反対のアクバル以来の融和路線を支持する兄のダーラー・シコーと激しく対立し、彼を「カーフィル」(背教者、偶像崇拝者)とさえ呼んだ。対立の要因はそれだけでなく、シャー・ジャハーンのダーラー・シコーに対するアウラングゼーブも嫉妬するほどの偏愛にあった[9]

とはいえ、シャー・ジャハーンはアウラングゼーブの才能を認め、高く評価していた。ダーラー・シコーは時折人々に「弟たちの間で油断ならないのは、あのナマーズィー(祈りを捧げる人)だけだ」と話していた[8]
諸州の太守として・サファヴィー朝との戦いアウラングゼーブ

1636年7月24日以降、アウラングゼーブはデカン総督に任命され、デカン地方へと向かった[9][3]。これは同年2月に父帝シャー・ジャハーンがアフマドナガル王国を滅ぼしたのち、後事を彼に任せるためであった[10]

1644年6月7日、アウラングゼーブはこの地位を解任され、1645年2月26日から1647年1月20日まで、アウラングゼーブはグジャラートの太守であった[3]

1647年2月19日から10月13日まで、アウラングゼーブはバルフ及びバダフシャーンの太守であった。これはブハラ・ハーン国で起きた政争に介入し、バルフとバダフシャーンの支配を固め、サマルカンドを奪還するためであった。だが、アウラングゼーブは迫りつつある冬には為す術がなく、部隊の士気も低下していたため、ブハラの君主ナーディル・ムハンマド・ハーンに任せて引き揚げた[11]。戦後、バルフ及びバダフシャーンの太守の地位は解任されたが、引き続きその地にとどまった。

その後、1648年12月からムガル帝国とイランサファヴィー朝との間でアフガニスタンの要衝カンダハールをめぐり第二次ムガル・サファヴィー戦争が勃発し、2月にカンダハールがサファヴィー朝に奪回された[12]。そのため、アウラングゼーブは父帝の命により、強力な軍勢を以てカンダハールへ進軍し、包囲を開始した。だが、アウラングゼーブの側には強力な大砲がなく包囲戦に苦労したため、カンダハールから引き揚げた[12]

1652年5月初頭、アウラングゼーブは今度は多数の大砲のみならず、食糧や物資を集めるなど準備を整えて、カンダハールを再包囲した[12]。しかし、カンダハール守備隊にも食料が豊富にあり、2ヶ月経っても陥落せず、そればかりかウズベクの軍勢1万騎が接近しつつあるとの報が届いたため、包囲を解いて退いた[12]


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