アウラングゼーブ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

ダーラー・シコーは逃避行を続けたのち、7月になって捕えられ、デリーへと送られた[33][41]。9月、アウラングゼーブはダーラー・シコーがデリーに送還されると、ダーラーを裁判にかけ、イスラーム教に背教してカーフィル(背教者、無宗教者)になったのだとたとして処刑した[45][46]

アウラングゼーブは父帝シャー・ジャハーンの偏愛に対する精神的復讐を行うため、ダーラー・シコーの首をアーグラに幽閉されているシャー・ジャハーンのもとに送りつけた[45]。予想通り、愛していたダーラー・シコーの死に、シャー・ジャハーンは気絶するほどの悲しみを受け、その復讐は果たされた[45]

1661年12月、アウラングゼーブは弟ムラード・バフシュを処刑した[45]。ムラード・バフシュの処刑を担当したのは、父であるサイイドを殺された息子らであった。アウラングゼーブは聖なる法に基づく形でこの処刑の実行を命じたのである[45]

こうして、アウラングゼーブは3人の兄弟を抹殺することに成功したが、最後に残ったシャー・ジャハーンに対しても復讐行為を続けた[47]。シャー・ジャハーンを引き続きアーグラに幽閉したまま、個人の宝石を取り上げたしたため、上履きを買い替えたりヴァイオリンを修理するぐらいの金すらなくなってしまった[47]。アウラングゼーブはまた書簡のやり取りで、父に対して「ダーラー・シコーを偏愛し自分は愛さなかった」、と横柄な口調の手紙で厳しく追及し続けた[47]

1666年2月1日、シャー・ジャハーンはアーグラ城に幽閉されたままで死亡した[47]。とはいえ、姉のジャハーナーラー・ベーグムはその死の間際、アウラングゼーブを許す手紙にサインさせている[47]
マラーターの台頭・シヴァージーとの争いシヴァージー

アウラングゼーブは皇位継承戦争後、帝国の繁栄を維持するため、1660年代から帝国の領土拡大を目指すようになった。北西方面ではかつてサファヴィー朝との争いに敗北したために領土の拡大は望めず、北東方面ではミール・ジュムラーがアーホーム王国と交戦状態に入っていたが、一進一退であった。そのため、アウラングゼーブはデカン方面に帝国の領土拡大を目指した。

だが、アウラングゼーブはまもなく、デカンでヒンドゥーの復興を目指すマラーターの指導者シヴァージーと衝突した。マラーターはデカンを中心とした新興カースト集団で、バフマニー朝やその継承国家であるデカン・スルターン朝は彼らを傭兵などの軍事力として依存した。シヴァージーはその一つビジャープル王国の小領主の息子として生まれたが、1640年代にマラーター勢力を率いて王国に反乱を起こし、1660年代にはアラビア海に面するコンカン地方に独自の政権を持つにいたった。彼が率いるマラーター勢力は強固な山城ラーイガドを中心に多数の砦を拠点とし、西インドの重要都市スーラトなどムガル帝国の領土に何度も襲撃、略奪をおこなった。

そのため、1660年にアウラングゼーブは叔父シャーイスタ・ハーンをデカン総督として派遣し、シヴァージーの掃討にあたらせた。だが、シャーイスタ・ハーンは息子を殺されたばかりか、自身も指を切られる大けがを負った。1664年にアウラングゼーブはシャーイスタ・ハーンを更迭し、ベンガル太守としてベンガルへと送った。

同年末、アウラングゼーブは帝国で最も強力な武将の一人ジャイ・シングをデカンへと派遣した。ジャイ・シングはラージプートのアンベール王国の君主であり、かつてダーラー・シコーの側にいた武将でもある[48]。ジャイ・シングはアウラングゼーブの期待にたがわず、シヴァージーの城塞を次々に落とし、1665年6月にはプランダル条約を締結した[48]。この条約では、シヴァージーは12の城以外を放棄し、ビジャープル王国への遠征に参加すること、その代わり彼にマンサブ(位階)を与えることが締結された。ビジャープル王国への遠征後、シヴァージーはジャイ・シングにアウラングゼーブとの謁見を勧められ、息子サンバージーとともに帝国の宮廷へと赴いた。
シヴァージーとの決裂アウラングゼーブとシヴァージー

1666年2月に廃帝シャー・ジャハーンが死亡すると、5月にアウラングゼーブはアーグラ城へと入った[49]。同月16日、アウラングゼーブは父帝が作らせた「孔雀の玉座」に座してダルバールを開き、アーグラに到着していたシヴァージーもこれにへと出席した、

ところが、アウラングゼーブは応対に際して、シヴァージーに侮辱的な態度で接し、そのうえ与えたマンサブ(位階)はその実力に見合わない、ラージプートの諸王よりも低いものだった。おそらく、アウラングゼーブは、マラーターが新興カーストであることで、地位的にはさして重要なものとは思っていなかったのであろうと考えられる。シヴァージーはこれに激怒し、面会中に公然と自身の感情を吐き捨てて宮廷を退去し、アウラングゼーブとの関係は悪化した。

シヴァージーはのちにデカンへの帰還を求めたが、アウラングゼーブはこれを許さず、従者には帰還を許したものの、彼と息子サンバージーは事実上監禁された。シヴァージーは皇帝アウラングゼーブにジャイ・シングと取り決めた条約、ビジャープル王国への攻撃などの忠誠を示した行動を思い出させようとしたが、無駄であった。

だが、アウラングゼーブはその逃亡を防ぐため、その住居のまわりに監視させ続けるだけに留めた。そのため、シヴァージーは本国への逃亡を考え、8月にシヴァージーと息子サンバージーは2つの大きな籠に隠れて城を脱出し、本拠ラーイガドに帰還した[49]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:151 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef