アウラングゼーブ
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だが、アウラングゼーブは自らジャイ・シングのもとへ赴き、「ラージャージー」(ラージャ殿)、「バーバージー」(父上殿)とミール・ジュムラーに掛けた類の言葉をかけ、その上でダーラー・シコーが破滅したと説得し、自身の真珠の首飾りをかけるなどして手厚くねぎらい、ラホールの長官に任じてラホールへと向かわせた[40]

11月、シャー・シュジャーが強力な軍隊を率いてアーグラへ向かってきており、すでにアラーハーバードのあたりまで来ていると報告が入った[41][42]。その頃、ダーラー・シコーがグジャラートのアフマダーバードにいるという知らせが入っており、アウラングゼーブ自ら追撃に向かおうとしていたが完全にこれを部下に任せ、自身はシャー・シュジャーの討伐に向かった[42][41]

そして、1659年1月5日、アウラングゼーブはシャー・シュジャーとアラーハーバード付近のカジュハでとの戦いに臨んだ(カジュハの戦い)[42]。戦闘は最初の方はシャー・シュジャーの優勢で、またアウラングゼーブの後陣を講和したはずのダーラー・シコー側の武将ジャスワント・シングが襲撃するなどしたため、アウラングゼーブの軍は混乱した[43]

しかし、ミール・ジュムラーが何とかアウラングゼーブに冷静さを取り戻させたこと、そしてアウラングゼーブの強運さによってによって、シャー・シュジャーは戦いに敗れてしまった[44]。シャー・シュジャーは一命を取り留めたが、軍は壊走した。この日の戦いもアウラングゼーブの勝利に終わった。

その後、アウラングゼーブはシャー・シュジャーを深追いせず、早々にアーグラへと引き上げた。だがミール・ジュムラーはシャー・シュジャーの追撃を行い、シャー・シュジャーは劣勢を克服できず、1660年にアラカン王国へと最終的に逃げた[33][41]。アウラングゼーブはアラカンの王にシャー・シュジャー引き渡しを求め、送還を恐れたシャー・シュジャーはアラカン王の打倒とアラカン王国乗っ取りを企てたため、1661年に殺害されてしまった[33][41]

同年3月、アウラングゼーブはダーラー・シコーの軍勢をアジュメールで破った(アジュメールの戦い)。ダーラー・シコーは逃避行を続けたのち、7月になって捕えられ、デリーへと送られた[33][41]。9月、アウラングゼーブはダーラー・シコーがデリーに送還されると、ダーラーを裁判にかけ、イスラーム教に背教してカーフィル(背教者、無宗教者)になったのだとたとして処刑した[45][46]

アウラングゼーブは父帝シャー・ジャハーンの偏愛に対する精神的復讐を行うため、ダーラー・シコーの首をアーグラに幽閉されているシャー・ジャハーンのもとに送りつけた[45]。予想通り、愛していたダーラー・シコーの死に、シャー・ジャハーンは気絶するほどの悲しみを受け、その復讐は果たされた[45]

1661年12月、アウラングゼーブは弟ムラード・バフシュを処刑した[45]。ムラード・バフシュの処刑を担当したのは、父であるサイイドを殺された息子らであった。アウラングゼーブは聖なる法に基づく形でこの処刑の実行を命じたのである[45]

こうして、アウラングゼーブは3人の兄弟を抹殺することに成功したが、最後に残ったシャー・ジャハーンに対しても復讐行為を続けた[47]。シャー・ジャハーンを引き続きアーグラに幽閉したまま、個人の宝石を取り上げたしたため、上履きを買い替えたりヴァイオリンを修理するぐらいの金すらなくなってしまった[47]。アウラングゼーブはまた書簡のやり取りで、父に対して「ダーラー・シコーを偏愛し自分は愛さなかった」、と横柄な口調の手紙で厳しく追及し続けた[47]

1666年2月1日、シャー・ジャハーンはアーグラ城に幽閉されたままで死亡した[47]。とはいえ、姉のジャハーナーラー・ベーグムはその死の間際、アウラングゼーブを許す手紙にサインさせている[47]
マラーターの台頭・シヴァージーとの争いシヴァージー

アウラングゼーブは皇位継承戦争後、帝国の繁栄を維持するため、1660年代から帝国の領土拡大を目指すようになった。北西方面ではかつてサファヴィー朝との争いに敗北したために領土の拡大は望めず、北東方面ではミール・ジュムラーがアーホーム王国と交戦状態に入っていたが、一進一退であった。そのため、アウラングゼーブはデカン方面に帝国の領土拡大を目指した。

だが、アウラングゼーブはまもなく、デカンでヒンドゥーの復興を目指すマラーターの指導者シヴァージーと衝突した。マラーターはデカンを中心とした新興カースト集団で、バフマニー朝やその継承国家であるデカン・スルターン朝は彼らを傭兵などの軍事力として依存した。シヴァージーはその一つビジャープル王国の小領主の息子として生まれたが、1640年代にマラーター勢力を率いて王国に反乱を起こし、1660年代にはアラビア海に面するコンカン地方に独自の政権を持つにいたった。彼が率いるマラーター勢力は強固な山城ラーイガドを中心に多数の砦を拠点とし、西インドの重要都市スーラトなどムガル帝国の領土に何度も襲撃、略奪をおこなった。


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