アウシュヴィッツ強制収容所
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すべての強制収容所は、ナチス親衛隊(SS)全国指導者であったハインリヒ・ヒムラーによって、SSの下に集約されており、SSが企業母体[注 7]となる400以上[注 8]にも上るレンガ工場はもとより、1941・1942年末以降の軍需産業も体系化された強制収容所の労働力を積極的に活用。敗戦後は、SSのみならず多くのドイツ企業が「人道に対する罪」を理由に連合国などによって裁かれた。

「ARBEIT MACHT FREI(ドイツ語で働けば自由になるの意味)」と記された、第一強制収容所の門のアーチ。
「B」のプレートのみ明らかに上下逆に付けられているが、一説には、設置作業にあたった収容者がせめてもの抵抗として、上下逆に取り付けたと言われる。

ハンガリーから到着したユダヤ人。(1944年)

オシフィエンチムの市街地をとりまくように造られた施設群。とりわけ第二強制収容所の規模が大きい。

復元された焼却炉。(オシフィエンチム博物館展示)

経過ヘスの絞首刑台(オシフィエンチム博物館展示)

1940年1月25日 - ポーランド・オシフィエンチム市郊外の強制収容所建設を決定。

1940年5月20日 - 「アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)」[注 9]親衛隊(SS)全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの指示により、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物を利用して開所。強制収容所における画一的な管理システム、いわゆる「ダッハウモデル」を踏襲している。初代所長は、SS中佐ルドルフ・フェルディナント・ヘス[注 10]ザクセンハウゼン強制収容所から移送された犯罪常習者30人が、最初の被収容者となった。

6月14日 - ポーランドの政治犯728人が到着。


1941年 - 最初のガス室を備えた複合施設「クレマトリウム1」が第一強制収容所に完成。

10月 - 収容者増加のため、ブジェジンカ村に大規模な「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」を建設。


1942年1月25日 - ドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所内での大量虐殺などの、いわゆるホロコーストの方針を決定づける「ヴァンゼー会議」を受け、ヒトラーはドイツ国内のユダヤ人強制労働者(男性10万人・女性5万人)のアウシュヴィッツ移送を命令。

1942年 - 1944年 - モノヴィッツ村周辺に、当時のドイツを代表する大企業の製造プラントや近隣の炭鉱に付随する形で、大小合わせて40ほどの収容施設を建設。この施設群は「アウシュヴィッツ第三強制収容所モノヴィッツ」[注 11]とも呼ばれる。

1943年1月 - 3月 - 105,000人を超えるユダヤ人が到着。

5月30日 - SS医師ヨーゼフ・メンゲレが着任。


1944年4月 - 11月 - 585,000人を超えるユダヤ人が到着。

8月2日 - 第二強制収容所の家族棟に収容されていたジプシーに対して最後の処刑が行われる。当日、約3,000人が殺害され、アウシュヴィッツからジプシーは一掃された。殺害された総数は推定で2万人。

10月7日 -ゾンダーコマンドによる武装蜂起。ガス室を備えた複合施設「クレマトリウム4」を破壊するが、まもなく鎮圧された。


1945年1月27日 - ソ連軍により解放。

1947年4月16日 - 初代所長ルドルフ・フェルディナント・ヘス、アウシュヴィッツにて絞首刑。

1979年 - 「アウシュヴィッツ強制収容所」として、ユネスコ世界遺産に登録。

2007年6月27日 -世界遺産登録上の名称を「アウシュヴィッツ=ビルケナウ?ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所(1940年-1945年)」に変更。

2009年 - 「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」看板が何者かに盗まれ、のち3つに切断され捻じ曲げられた形で発見される。2011年5月に修復完了。今後は複製品を掲示し、実物は厳重に保管される予定。

各強制収容施設の概要
アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)

航空写真第一強制収容所正門「死の壁」。多くの被収容者がこの壁の前で銃殺刑に処された

1940年5月20日、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物をSSが譲り受け開所。約30の施設から成る。平均して13,000 - 16,000人、多いときで20,000人が収容された。被収容者の内訳は、ソ連兵捕虜、ドイツ人犯罪者や同性愛者、ポーランド人政治犯が主となっている[注 12]。後に開所する「第二強制収容所ビルケナウ」や「第三強制収容所モノヴィッツ」を含め、アウシュヴィッツ強制収容所全体を管理する機関が置かれていた。

赤レンガの積み立てられた2階建ての建物で、周りは鉄製のバリケードに覆われており一か所だけバリケードがない部分が入り口である[2]。入り口には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の一文が掲げられている[2]。「B」の文字が逆さまに見えることについて、SSの欺瞞(ぎまん)に対する作者(被収容者)のささやかな抵抗と考える向きもあるが、実際にはこの書体は当時の流行であった。10号棟には人体実験が行われたとされる実験施設が、11号棟には逃亡者や収容所内でのレジスタンス活動を行った者に対して銃殺刑を執行するための「死の壁」があり、そのほかには、裁判所、病院などがあった。収容施設は、女性専用の監房、ソ連兵捕虜専用の監房などといった具合に分けられている。また、アウシュヴィッツ最初のガス室とされる施設が作られたが、後に強制収容所管理のための施設となった。戦後、ガス室として復元され、一般に公開されている。
アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ

航空写真広大な敷地に300余りの施設が建設されたガス室のあった複合施設(クレマトリウム)の破壊跡

被収容者増を補うため、1941年10月、ブジェジンカ村に絶滅収容所として問題視される「第二強制収容所ビルケナウ」が開所。総面積は1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)で、300以上の施設から成る。建設には主にソ連兵捕虜が従事したとされる。ピーク時の1944年には90,000人が収容された。そのほとんどはユダヤ人であり、このほかに主だったものとしてロマ・シンティが挙げられる。

アウシュヴィッツの象徴として映画や書籍などで見られる「強制収容所内まで延びる鉄道引込み線」は1944年5月に完成。被収容者から猟奪した品々を一時保管する倉庫や病院(人体実験の施設でもあったとされる)、防疫施設、防火用の貯水槽とされるプールがあった。ガス室は、農家を改造したものが2棟と複合施設(クレマトリウム)が4棟の計6棟があったとされるが、これらは被収容者の反乱や撤退時に行われた何かしらの証拠隠滅を目的とした破壊により原型をとどめていない。収容施設は、家族向けの監房、労働者向けの監房、女性専用の監房などに分けられており、1943年以降に建てられた南側の収容施設(全体の3分の1程度の棟数)は、湿地の上に満足な基礎工事もなく建てられており、特に粗末な作りであったと伝えられている。ここには主に女性が収容された。
アウシュヴィッツ第三強制収容所モノヴィッツ

航空写真最大の規模があったとされるイーゲー・ファルベン社の化学プラント(1941)生産プラントは連合国爆撃機の標的となった(1944)

1942年から1944年の間に、当時のドイツを代表する イーゲー・ファルベン社(化学)、クルップ社(重工業)、シーメンス社(重電産業)といった大企業の製造プラントや、近隣の炭鉱に付随する形で大小合わせて40ほどの収容施設がモノビツェ村(ドイツ語名モノヴィッツ)に作られた。これらの施設群を「第三収容所モノヴィッツ」と呼ぶ。

オシフィエンチム市は鉄道の接続が良く、近郊は石炭と石灰の産出地。さらには内陸に位置することもあり、既存の生産拠点への空襲が危惧されるようになると、安い労働力と併せて注目されるようになった。

なかでも最大規模であったのが、700万ライヒスマルクを投資して建てられたイーゲー・ファルベン社の合成ゴム・合成石油プラント「ブナ」。同社は、1925年にドイツの化学関連企業6社が合体してできたコンツェルンであり、当時の総合化学業界としては世界を三分するうちの1社であった。また、1936年4月、ナチス率いるドイツ政府によって示された国家の重要な指針をとなる「四ヵ年計画」の遂行にあたって、産業面で大きな役割を果たすなどドイツ政府とは緊密に連携し合う関係にあった。


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