アウグスト・ピノチェト
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特に教育面では、大学が軍人の統制下に置かれ、思想統制のためマルクスら社会主義関連の書物や、パブロ・ネルーダフランツ・カフカマクシム・ゴーリキージークムント・フロイトなどが焚書にかけられ、燃やされた[2]

1974年6月27日には大統領に就任。アメリカ合衆国の政財界、チリ国内の保守層や軍部の支援を受けながら、その後1990年3月までの16年間に亘って軍事政権を率いて強権政治を行い、「独裁者」と呼ばれた。ピノチェト政権下では、多くの左派系の人々が誘拐され行方不明となった。2004年のチリ政府公式報告書では、1973年から1990年までの死者・行方不明者は合計で3,196人だが[3]、国際的な推計によれば実際にはもっと多いのではないかともいわれる。また、誘拐・投獄に伴う拷問も広く行われたとされ、新たに建設された強制収容所に送られたり、拷問を受けたりと何らかの形で人権侵害を受けた人々は10万人とも推定され、政治的、経済的な理由での亡命者は当時のチリ総人口の約10%の100万人に達した[1]。最も有名なのは死のキャラバン(英語版)と呼ばれるヘリコプターを使った処刑部隊であり、何人もの囚人や民間人がチリの海、湖、川、アンデスの山頂にヘリコプターから突き落とされたとされる[4][5][6]

1974年、ルター派教会のヘルムート・フレンツ監督と、カトリックのエンリケ・アルベアール司教がピノチェトに面会し、「肉体的圧力(ピノチェトを憚って「拷問」の用語を避けた)」を止めるよう申し入れた。ピノチェトは自ら「拷問のことかね?」と返し、「あんた方(聖職者)は、哀れみ深く情け深いという贅沢を自分に許すことができる。しかし、私は軍人だ。国家元首として、チリ国民全体に責任を負っている。共産主義疫病が国民の中に入り込んだのだ。だから、私は共産主義を根絶しなければならない。(中略)彼らは拷問にかけられなければならない。そうしない限り、彼らは自白しない。解ってもらえるかな。拷問は共産主義を根絶するために必要なのだ。祖国の幸福のために必要なのだ。」と、拷問を正当化した。フレンツは殺されこそしなかったが、後に国外追放された。1987年4月に教皇ヨハネ・パウロ2世がチリを訪問した際も、ピノチェト本人に対し「あんたはただの独裁者だ」と面罵、民主化に向けた取り組みを促した。また、海外に亡命したアジェンデ政権の要人も次々に暗殺された。前任の陸軍総司令官であったカルロス・プラッツも、1974年に亡命先のブエノスアイレスで殺された。元秘密警察の証人であるマイケル・タウンリー(英語版)によれば政敵に使用するためにサリン炭疽菌といった生物兵器化学兵器も製造していたとされる[7]。こうした国民に対する弾圧や事実上のテロ行為は国際的に厳しい非難を浴び、国連総会でも1974年以来4年連続で対チリ非難決議が採択された。
「チリの奇跡」詳細は「チリの奇跡」を参照パレードを行うピノチェト(1982年)

経済政策では、ミルトン・フリードマンが主張する新自由主義を実行し、「シカゴ学派」と呼ばれるフリードマンの弟子のマネタリスト(シカゴ・ボーイズ)を大勢招いた。ピノチェトは世界恐慌以来続いた輸入代替政策の大規模な否定に取り掛かったのである。事実、ピノチェトは政権奪取後から短期的には良好な経済成長を実現し、フリードマンはピノチェトの政策を「チリの奇跡」と呼び、ピノチェトの支持者たちは「アジェンデの失政によって混乱した経済を立て直した」と評価した。

ピノチェト時代には経済の中心がそれまでのサンティアゴ=バルパライソから南部のテムコや北部のアリカや、イキケコピアポに移動した[8]


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