アウグストゥス
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カエサルがタプソスの戦いに勝利してアフリカのポンペイウス派残党を壊滅させた際、小カトーに仕えていたオクタウィアヌスの友人マルクス・ウィプサニウス・アグリッパの兄が捕虜となり、オクタウィアヌスはアフリカから帰還したカエサルにアグリッパの兄の釈放を嘆願して認められ、さらに凱旋式への参列も許された[5]

紀元前46年にカエサルがヒスパニアのポンペイウス派残党の討伐に向かった際に同行を許され、病で出遅れたものの敵中を突破してカエサルの陣営に辿り着いた事で称賛を得ているが、後に政敵からこの時カエサルの部下だったアウルス・ヒルティウスに38万セステルティウスで身をひさいだと中傷されている[6][7]
相続人

オクタウィウスはここで敬意と親愛に満ちた対応をしてくれている。彼は自分の取り巻きに「カエサル」と呼ばせているが、ピリップスはそうしていなかったので、私もそう呼ばなかった。彼が良き市民でいられるとは到底思えない。取り巻きには、我々の友人を殺すと脅すような輩が大勢いるんだ。

―キケロ『アッティクス宛書簡』14.12

紀元前44年3月15日にカエサルがマルクス・ユニウス・ブルトゥスガイウス・カッシウス・ロンギヌスらに暗殺(英語版)された時、オクタウィアヌスは予定されていたパルティア遠征に備えてアポロニアで弁論と軍務の修練に励んでいたが、急遽ローマへ帰還する。その途中、ギリシアからほど遠くない南部イタリア、ブルンディシウム近郊のリピアエでカエサルが自身を養子に指名し、自身の名と財産の相続人としていたことを知った。アティアらの親族は相続に反対したが、友人達の性急な武力行使の主張を抑えつつ、ローマの動静を探るためカエサルの政治的右腕だったルキウス・コルネリウス・バルブスらの遺将や元老院の重鎮だったマルクス・トゥッリウス・キケロらと接触を重ねた。

バルブスらの反応に手応えを感じた事で5月7日にローマでカエサルの後継者としてしてその名前を継承する事を宣言し、弱冠18歳でアグリッパやクイントゥス・サルウィディエヌス・ルフス(英語版)らの同志達と共にローマにおける権力闘争へ身を投じる事となった[8][9]
台頭

その時、彗星は11時頃に現れて大地からでも曇りなく見えた。彗星を見た群衆はカエサルの霊魂が不滅の神々によって迎えられた事を確信し、その名故に折しもローマ市民達がフォルムにおいて聖なる存在とした像の頭部に彗星が置かれたのだった。


大プリニウス博物誌』2.94

この時ローマの勢力図はカエサルの部下で執政官として権力を握っていたマルクス・アントニウスと、ブルトゥスら暗殺者達に同調するキケロら共和派によって二分されていた。

ローマに入ったばかりのオクタウィアヌスは脆弱な立場にあり、キケロは「名前以外に何も持たない若者」[10]と評し、カエサルの遺言も権力基盤継承には不十分であり[注釈 2]アントニウスにも遺贈金の引き渡しを拒否された。そのためオクタウィアヌスは唯一の武器である「カエサル」の名を最大限に利用し、7月20日に開催されたカエサルの戦勝とカエサル家氏神ウェヌス・ゲネトリクスを讃える祭事を取り仕切り存在感を示した。また、この時偶然上空に現れた彗星をカエサルがとなり、その後継者と認められた証と人々に受け止められ事で立場は強化された[12]カエサルと彗星が刻まれた硬貨。

さらに、カエサル麾下の古参兵が多数在籍したカンパニア地方に赴き、アグリッパガイウス・マエケナス(あるいはその父親)ら同志の助けを得て多額の報酬と宣伝によって兵力を募り、紀元前44年11月10日、アントニウスが指揮下にあった軍団を呼び戻すためマケドニアに赴いた際の不在を突いてローマ市内へと進駐した。だが、共和派の支持を得られず、麾下の将兵もローマ市民同士の戦いを望まず厭戦気分が広まったため引き返してきたアントニウスの軍勢に対抗できず撤退を余儀なくされ、マエケナスの出身地であるラウェンナ地方の都市アレッティウムに転進して再起を図った[13][14]
キケロとの協調

しかし、現時点で私は、この決議を支持する。「神祇官でありプロプラエトルであるガイウスの子ガイウス・カエサルは・・・国家の最も差し迫った時に、ローマ人の安全と権威のために働いた。こうしたことから、元老院は、神祇官でありプロプラエトルであるガイウスの子ガイウス・カエサルを議員とし、プラエトル経験者の座席から所見を述べることを認め、いかなる政務官職にあるときでも、前年にクァエストルであった者と同じ法的権限を持つものとする。」


―キケロ|『ピリッピカ』5.46

オクタウィアヌスを退けたアントニウスだったが麾下の2個軍団がオクタウィアヌスに買収されて離反し事で立場が厳しくなり、11月29日にローマを離れ属州総督としての任地であるガリア・キサルピナに向かい勢力挽回を目指した。アントニウスローマを離れた事を確認したキケロは12月20日の元老院において弾劾演説『ピリッピカ』第三演説でアントニウスを非難すると同時にオクタウィアヌスをローマの守護者と称揚して共和派への取り込みを図り、翌紀元前43年1月7日に元老院はオクタウィアヌスに執政官格の法務官命令権(インペリウム)を与え、その黄金像建立を決定してアントニウスとの対決姿勢を鮮明にした。正規の手続きで属州総督の地位にあったアントニウスへの攻撃は明確な違法行為だったが、これにより私兵部隊の指揮官に過ぎなかったオクタウィアヌスは一応の公的な地位を得る事となった[15]

4月21日、オクタウィアヌスはアウルス・ヒルティウスガイウス・ウィビウス・パンサ・カエトロニアヌスの両執政官と共にムティナの戦いでアントニウスに決戦を挑み、ヒルティウスパンサ執政官を失いながらもアントニウスに勝利して敗走させた。戦闘後、オクタウィアヌスは元老院が自身から命令権を剥奪し、麾下の兵士達への恩賞を渋る意図を知り不信感を募らせ、自身の親書を持たせた捕虜を密かにアントニウスの元へと送り返して接触を試みた。


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