聖アウレリウス・アウグスティヌス(ラテン語: Aurelius Augustinus、354年11月13日 - 430年8月28日[26])は、ローマ帝国(西ローマ帝国)時代のカトリック教会の司教であり、神学者、哲学者、説教者。ラテン教父の一人。
テオドシウス1世がキリスト教を国教として公認した時期に活動した。正統信仰の確立に貢献した教父であり、古代キリスト教世界のラテン語圏において多大な影響力をもつ。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会・非カルケドン派における聖人であり、聖アウグスティヌスとも呼ばれる。日本ハリストス正教会では福アウグスティンと呼ばれる。母モニカも聖人である。
名前が同じカンタベリーのアウグスティヌス(イングランドの初代カンタベリー大司教)と区別して、ヒッポのアウグスティヌスとも呼ばれる。 アウグスティヌスはキリスト教徒の母モニカ(聖人)と異教徒の父パトリキウスの子として、354年に北アフリカ・ローマ属州のタガステ(現在のアルジェリアのスーク・アフラース)に生まれた。若い頃から弁論術の勉強を始め、370年からは、タガステの富裕な市民ロマニアヌス[27]の伝で西方第2の都市カルタゴにて学ぶ。父パトリキウスは371年に死去した。この年から女性(氏名不詳)と同棲を始め、翌372年に私生児である息子アデオダトゥス(Adeodatus、?a-deo-datus? から「神からの贈り物」の意。372年-388年)が生まれる[28]。同棲は15年に及んだといわれる。当時を回想して「私は肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」と『告白』で述べている[29]。 キリスト教に回心する前は、一時期(373年-382年)、善悪二元論のマニ教を信奉していたが、キケロの『ホルテンシウス』を読みローマ哲学に関心をもち、マニ教と距離をおくようになる。その後ネオプラトニズム(新プラトン主義)を知り、ますますマニ教に幻滅を感じた。 当時ローマ帝国の首都であったイタリアのローマに383年に行き、さらに384年には、その北に位置する宮廷所在地ミラノで弁論術の教師をするうち[30]、ミラノの司教アンブロジウスおよび母モニカの影響によって386年に回心し、387年に息子アデオダトゥスとともに洗礼を受け、キリスト教徒となった。受洗前の386年、ミラノの自宅で隣家の子どもから「Tolle, lege(とって読め)」という声を聞き、近くにあったパウロ書簡「ローマの信徒への手紙(ローマ人への手紙)」第13章13-14節の「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」を読んで回心したといわれる[31]。 387年、母モニカがオスティアで没した後[32]、アフリカに帰り、息子や仲間と共に一種の修道院生活を送ったが、この時に彼が定めた規則は「アウグスティヌスの戒則」と言われ、キリスト教修道会規則の一つとなった(聖アウグスチノ修道会は、アウグスティヌスの定めた戒則を基に修道生活を送っていた修道士たちが13世紀に合同して出来た修道会である)。 391年、北アフリカの都市ヒッポ・レギウス(当時、カルタゴに次ぐアフリカ第2の都市)の教会の司祭に、さらに396年には司教に選出されたため、その時初めて聖職者としての叙階を受けた。以後、430年の死去までこの街で暮らすこととなった[33]。 410年、ゴート族によるローマ陥落を機に噴出した異教徒によるキリスト教への非難に対し、天地創造以来の「神の国」と「地の国」(次節「思想」参照)の二つの国の歴史による普遍史(救済史)の大著『神の国』によって応えた。この著作はアウグスティヌスの後期を代表する著作となる。 430年8月28日、ヨーロッパからジブラルタル海峡を渡って北アフリカに侵入したゲルマン人の一族ヴァンダル人によってヒッポが包囲される中、ローマ帝国の没落と合わせるように、最後の古代哲学者として没した[34]。
生涯
思想
「神の国」と「地の国」