アウクスブルク
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^ 2008年に左翼党(Linke)と改名
^ FREIE WAHLER/FREIE WAHLER Augsburg: 3議席、Augsburg in Burgerhand: 1議席、Generation AUX: 1議席、Die PARTEI: 1議席、V-Partei: 1議席、WSA: 1議席

連邦議会選挙

アウクスブルクは第253アウクスブルク市選挙区に属す。この選挙区にはアウクスブルク郡のケーニヒスブルンも含まれる。
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1811年から1985年まで用いられていた黄色い柱頭が描かれた市章

1985年以降用いられている市章

アウクスブルクの市章の公式な紋章学上の記述は、赤字と銀地に左右二分割。中央に緑のツィルベルヌス(直訳するとツィベルキーファーという植物の種子であるが、ここでは図案化されたマツカサ状の意匠を指す)。1985年以降、ツィルベルヌスは緑の柱頭の上に描かれている。市の旗はこれに対応して赤 - 緑 - 白である。

確認されている最も古いアウクスブルクの市章は1237年のもので、2つの塔がある胸壁の門とその上に星というデザインのものである。門の中には生命の樹が描かれていた。1260年からは、その下にブドウが加えられた。これはブドウの種名である「アウクステル」が市の名前を暗示するものである。

15世紀に紅白に左右分割された地の上に緑のブドウが描かれたものが現れ、マツカサ(ローマ時代の墓石の上に飾られていた)が発掘されたことで、1467年にこれに変更された。これ以後、ブドウの代わりにマツカサが描かれるようになった。柱頭は1521年に初めて見られ、1811年から城壁冠となった。このシンボルの意味は明らかでない。市の色は1372年以降、知られている。建都2000年を機会に1985年に紋章は時代趣味に従って新しく改変された。

ツィベルヌスは様式化されたマツカサでありローマ軍の軍団識別標識であり、後にラエティア属州の首都のシンボルとなった。現在もツィベルヌスは市内の至る所で見ることができる。
姉妹都市姉妹都市を示す看板

インヴァネスイギリススコットランド)1956年

長浜市日本滋賀県)1959年

尼崎市日本兵庫県)1959年

デイトンアメリカ合衆国オハイオ州)1964年

ブールジュフランスシェール県)1967年

リベレツチェコリベレツ州)2001年

済南市中華人民共和国山東省)2004年

他のドイツの都市と同様に、アウクスブルクの姉妹都市の歴史は第二次世界大戦後に始まった。1956年、ミュンヘンにあるイギリス総領事館からスコットランドの都市とアウクスブルクとの間で姉妹都市の提携を結びたいとの希望が示され、その候補として第3の都市であるインヴァネスが提案された。同じ年に公式な代表団の相互訪問がなされた後、継続的な文化交流がなされ、姉妹都市となった。興味深いことに、この姉妹都市協定は文書での契約が記録として残されていない。

最初のドイツ=日本間の姉妹都市協定は、第二次世界大戦前にミュンヘンで学び、その研究に関連してルドルフ・ディーゼルに興味を持ってアウクスブルクをたびたび訪れていた一人の日本人、山岡孫吉の功績による。山岡は戦後、ヤンマーディーゼルの社長となり、ヴィッテルスバッハ公園に記念林を贈った。その後、彼は政治上、あるいは個人的な影響力を行使して、1959年に自らの会社の工場がある長浜市および尼崎市とアウクスブルク市の間で二重の姉妹都市協定を締結した。

そのわずか5年後に、今度はアメリカ合衆国の都市デイトンと姉妹都市協定を締結した。これは元々、1956年にアイゼンハワー大統領が発表した「ピープル・トゥー・ピープル」プロジェクトの一環であった。これに、デイトンを本拠とするアメリカのNCRコンツェルンのドイツ本部がアウクスブルクにあったことが、友好関係を助長した。最終的に姉妹都市関係は「シスター・シティー・コミッティー」(姉妹都市委員会)の創設により牽引された。

1963年の独仏友好条約を承けて、その1年後にアウクスブルク市議会はフランスの都市との姉妹都市協定を結びたい意向を示した。国際市長同盟での協議を経てフランス中央に位置するブールジュがその相手となった。姉妹都市協定は1967年4月に締結された。その以前から、良好な相互訪問や交流が行われている。

次の姉妹都市協定は、この31年後に締結されたのだが、これはそもそも第二次世界大戦直後にまで遡る。1955年にアウクスブルクはチェコの都市リベレツ(ドイツ名: ライヒェンベルク)からの避難民すべてに対する保護協力を申し出ていた。


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