アウクスブルクの和議
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アウクスブルクの和議では1526年第一回シュパイアー帝国議会が確認された[1]
内容

アウクスブルク宗教平和令は以下のように定めた[2]
帝国に平和をもたらすために、カトリックとルター派は信仰を理由とした暴力は禁止する。ただし、カルヴァン派とツヴィングリ派、再洗礼派は異端とみなされ除外された[3]

諸侯の信仰は自由であり、自領の信仰(ルター派かカトリック教会)を選ぶことができ、そして領民にはその信仰に従わせるとした。これは「領土が属するところの者に宗教も属する」(cuius regio, eius religio「ひとりの支配者のいるところ、ひとつの宗教)原則とされ、領邦教会制の基盤が形成されていった[3]

帝国都市では従来二つの宗教がおこなわれてきた場合には将来もそうあるべきである(27条)とし、諸侯のような宗派選択権は都市には認められなかった[3]。また国王と諸侯は、都市における水平的仲間関係の平等原理に対して、市民は仲間の市民に支配権を行使できないため都市には統治権がないとした[3]。両派の容認は都市内の少数派であったカトリックの擁護でもあった[3]。宗教改革によって活性化された自治の精神は奪われ、都市勢力は地盤沈下した[3]

ルター派は1552年パッサウ条約以降にカトリック教会から獲得した領地を保つことができる。

ルター派に改宗した司教領主は自らの領地を放棄して、カトリック教会に明け渡す必要がある。すなわち、’’reservatum ecclesiasticum’’(聖職者にかんする留保、教会的留保、教会領維持) の原則であり、カトリック司教の改宗の禁止を意味した[4]。しかし、フェルディナンド宣言ですでに長期にわたってルター派である騎士と都市はルター派にとどまることが許された[3]

アウクスブルクの和議は教皇はあまり関わらず皇帝と諸侯の間で交わされたものであったが、この和議は一時の妥協にすぎず、その後も新旧両派は自らの勢力拡大に努めた[2]
脚注[脚注の使い方]
出典^ the Diet of Speyer,in Britannica Online Encyclopedia,“Lutheran church organization and confessionalization,The Reformation”. www.britannica.com. 2017年7月12日閲覧。
^ a b 木村編 2001, pp.99-117.
^ a b c d e f g #木村・成瀬・山田編 1997,pp.465-466
^ Sigfrid 1973

参考文献

木村靖二成瀬治山田欣吾編 編『ドイツ史 1』山川出版社〈世界歴史大系〉、1997年7月。 

木村靖二成瀬治山田欣吾編 編『ドイツ史 2』山川出版社〈世界歴史大系〉、1996年7月。 

木村靖二編 編『ドイツ史』山川出版社〈世界各国史13〉、2001年8月。 

Sigfrid Henry Steinberg 著、成瀬治 訳『三十年戦争』〈ブリタニカ国際百科事典〉1973(1988年改訂)、401-409頁。 

関連項目

宗教改革

対抗改革

プロテスタント

宗教戦争

三十年戦争

帝国執行令


ハプスブルク家

パッサウ条約

ナントの勅令

ヴェストファーレン条約

復旧令

外部リンク

『アウクスブルクの和議
』 - コトバンク

『アウクスブルクの宗教和議』 - コトバンク


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