アウィトゥス
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廃位されたアウィトゥスが何を考えていたのかも、彼の死んだ日そして理由も明確ではなく、幾つかの異なる話が伝えられている。

トゥールのグレゴリウスによれば、元老院が廃帝アウィトゥスの死罪を命じるとアウィトゥスは郷里アヴァニアの聖ユリアヌス聖堂の浄財集めの名目でガリアに逃れたが、その旅の最中に死んだという[23]。その他の史料は廃帝は彼の後継者(マヨリアヌス帝)によって絞殺または餓死に至らしめられたとしている[24]。アウィトゥスは廃位から間もない456年末か457年に死去し、ブリウドの聖ユリアヌスの墓所の隣に埋葬された[25]
ペトロニウス・マクシムス帝との関係

先代の西ローマ皇帝ペトロニウス・マクシムス帝とは直接の血縁関係ではないが、義理の兄弟で縁戚にあたる。具体的に言えば、マクシムス帝の最初の妻エパルキア・アウィタ(397年 - 435年以前に没)がアウィトゥス帝の妹となる。マクシムス帝とエパルキア・アウィタとの間にはマクシムス帝の副帝パッラディウス(415年頃もしくは425年 - 455年)がいるとされる。

更に言えば、マクシムス帝の後妻ウォルシアナ(ルキニア?)とも血縁関係にある。ウォルシアナの父方の高祖母の1人エグナティア・ロッリアナ(300年 - 没年不明)の弟クィントゥス・フラウィウス・マエシウス・エグナティウス・ロッリアヌス・マウォルティウス(305年 - 355年以降)の孫娘エグナティア・アウィタ・セウェラ(355年 - 没年不明)の息子がアウィトゥス帝の父アグリコラだからである(エグナティア・アウィタ・セウェラはマウォルティウスの息子クィントゥス・フラウィウス・プラキドゥス・セウェルスとその妻アントニア・マルキアニッラ(340年 - 没年不明)の娘)。つまり、アウィトゥス帝とエパルキア・アウィタはマウォルティウスの玄孫、ウォルシアナはエグナティア・ロッリアナの玄孫にあたり、系譜上、同世代に属する(四従兄弟姉妹同士(従兄弟姉妹同士の曾孫)ということになる)。

上記の系譜を拡大すると、コンスタンティヌス朝ウァレンティニアヌス朝テオドシウス朝ヴァンダル王国の王族、オリブリオス帝、東ローマ帝国皇帝であるアナスタシウス1世とその一族、レオ朝ユスティニアヌス王朝ヘラクレイオス王朝西ゴート王国メロヴィング朝カロリング朝などに繋がり、4世紀から9世紀にかけて地中海世界を支配した多くの皇族、貴族、王族に連なり、この血筋はアウィトゥス帝直系ではないものの、東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスまで繋がっており、コンスタンティノス11世の姪(弟トマスの娘)ゾイの血筋が現在まで存続している。
脚注^ 古い資料にはMarcus Maecilius Avitusの名が見られるが、現代ではEparchius のみが受け入れられている。ICVR-08, 20823: Locus Geronti presb(yteri) / depositus XIIII Kal(endas) Iul(ias) / cons(ulatu) Eparchi Aviti.
^ アウィトゥスは420年に最初の公職に就いている。シドニウス=アポリナーリスはこの時の彼をiuuenis(青年)と表現しており、30歳から45歳と推定される。iuuenis(青年)の年齢類型については次を参照せよ。
Andrew Gillet, "The Birth of Ricimer," Historia: Zeitschrift fur Alte Geschichte, Vol. 44, No. 3, 1995, p. 383 note 23.
^ Fasti vindobonenses prioresは7月10日としている。
^ Sidonius Apollinaris, vii.571?579, によればアウィトゥスはユリアヌス帝と同様にガリア人が首輪に用いるトルクで戴冠した。
^ ギボン 1996,p.296.
^ Bury 1958,p.326.
^ en:Fasti vindobonenses priores, n. 575; en:Cassiodorus, 1264.
^ Auctuarium Prosperi, 7.
^ ギボン 1996,p.302.
^ ヒダティウス(英語版)の年代記によれば、アウィトゥス帝はマルキアヌス帝に使節を送り、両帝国の勢力圏について協議させた(『年代記』, 166章)。後に二人の皇帝は合意に達したという(『年代記』,169章)。
^ See en:Priscus, History, fragment 24, and Hydatius, 176?177.
^ a b ギボン 1996,p.300.
^ E.A. Thompson, "The End of Roman Spain. Part II", Nottingham Medieval Studies, 1977.
^ 一方で、アウィトゥス帝の不行跡に関する確証はない。ギボン 1996,pp.302-303.
^ John of Antioch, fragment 202.
^ Fasti vindobonenses priores, 579; en:Auctuarium Prosperi Havniense, 1.
^ Hydatius, 177.
^ Fasti vindobonenses priores, 580は戦闘の日付を10月17日と伝えており、一方、Auctuarium Prosperi, s.a. 456 は10月18日のこととする。Victor of Tuenna, s.a. 455 によればアウィトゥスはメディオラヌムミラノ)司祭エウセビオスによって叙階された。


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