アイン・ランド
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大学ではアリストテレスおよびプラトンの著作に出会った[14]。アリストテレスには最大の影響を、プラトンには最大の反面教師としての影響を、それぞれ受けることになった[15]。アリストテレスとプラトンに次いでランドが熱心に著作を研究した思想家は、フリードリヒ・ニーチェであった[16]。フランス語、ドイツ語、ロシア語を読むことができたランドは、フョードル・ドストエフスキーヴィクトル・ユーゴーエドモン・ロスタンフリードリヒ・シラーなどの作家にも出会い、これらの作家の作品を長く愛読した[17]

卒業直前、ランドは他の多くの「ブルジョア」学生と共に大学から追放された。しかし海外から訪れた科学者グループからの抗議を受け、追放された学生の多くは学業の修了と卒業を許可された[18]。ランドも1924年に大学を卒業した[19]。その後1年間レニングラードの国立映画専門学校で学んだ。学校の課題の一つとしてポーランド人女優ポーラ・ネグリに関する評論を書き、これがランドの最初の刊行作になった[20]

この頃までに筆名としてアイン・ランドを名乗ることを決めていた[21]。名前の由来は諸説あるが、「ランド」は本名の姓Rosenbaumのキリル文字での短縮形[22]、「アイン」はフィンランド語での名前、もしくは「目」を意味するヘブライ語「 ???」(アイン)から取った[23]と言われる。1925年に出版されたランドの最初の刊行作、女優ポーラ・ネグリに関する2,500語の研究論文[20]
アメリカへの移住

1925年、ランドはアメリカの親類を訪問するビザを取得した。ニューヨーク港に着いたランドは、マンハッタン摩天楼群が織りなすスカイラインに、感激のあまり「光輝の涙」を流したと後に回想している[24]。米国に留まり映画脚本家になることを決心していたランドは、最初にシカゴの親類を訪れた。親類の一人は映画館を1つ所有しており、彼女が数十の映画を無料で見ることを許した。数ヶ月の滞在後、ランドはシカゴの親類の家を後にし、カリフォルニア州ハリウッドへと出発した[25]

当初ハリウッドでの生活は苦しく、生活費を稼ぐために雑多な仕事に従事した。著名映画監督セシル・B・デミル (Cecil B. DeMille) との面識を得て、彼の映画「キング・オブ・キングス」(The King of Kings)でのエキストラに採用され、その後も下級シナリオライターとしての仕事を獲得した[26]。「キング・オブ・キングス」での仕事中、若く野心的な俳優フランク・オコナー(Frank O'Connor)と出会い、1929年4月15日に結婚。1931年にはアメリカ市民権を取得した。1930年代、ランドは作家業の補助として様々な職業に就いた。その中には、当時の5大映画会社の一つ、RKOスタジオの衣装部門の責任者の仕事もあった[27]。両親と2人の妹を米国に呼び寄せようと何度か試みたが、彼らは移住許可を取得できなかった[28]
初期のフィクション

ランドが作家として最初に成功した作品は、1932年に映画会社ユニバーサル・スタジオに買い取られた脚本「レッドポーン」(Red Pawn)であった。ただしこの脚本は結局映画化されなかった[29]。次に書かれた法廷ドラマ「1月16日の夜に」(Night of January 16th)は、まず1934年にハリウッドでエドワード・E・クライヴ (Edward E. Clive) によって映画化され、1935年にはブロードウェイで上演され成功を収めた。


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