文芸評論の世界では、ランドの虚構は殆ど認められていない[5]。アカデミズムの世界では、ランドの思想はほぼ無視または否認されている。客観主義運動は、ランドの思想を一般および学界に広めることを目指す運動である[6]。リバタリアンやアメリカの保守主義において、ランドは大きな影響力を保ち続けている[7]。 ランドは1905年2月2日にサンクトペテルブルクに住む中産階級の一家の、3人姉妹の長女として生まれた。父はジノヴィ・ザハーロヴィチ・ローゼンバウム、母はアンナ・ボリソヴナ(旧姓カプラン)で、2人はほぼ非順守派
生涯
生い立ち
その後の十月革命と、ウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキの独裁確立により、ランドの一家はそれまでの快適な生活を破壊された。父の薬局事業は没収され、一家は転居を強制された。ランド一家はロシア内戦中白軍の支配下にあったクリミアに逃れた。ランドの回想によれば、ランドは高校時代に無神論の立場を取ることを決め、理性を他のあらゆる人間的価値の上位に置くことに決めた。ランドが16歳でクリミアの高校を卒業した後、一家はペトログラード(旧サンクトペテルブルク)に戻った。ペトログラードでの生活条件はひどく、時に飢餓寸前の状態に陥った[10][11]。ランドはペトログラード国立大学で3ヶ年のプログラムを修了した。
ロシア革命後、大学が女性に解放され、ランドはペトログラード大学に入学した最初の女性の一人になった[12]。ランドは、この大学の社会教育学部で歴史を専攻した[13]。大学ではアリストテレスおよびプラトンの著作に出会った[14]。アリストテレスには最大の影響を、プラトンには最大の反面教師としての影響を、それぞれ受けることになった[15]。アリストテレスとプラトンに次いでランドが熱心に著作を研究した思想家は、フリードリヒ・ニーチェであった[16]。フランス語、ドイツ語、ロシア語を読むことができたランドは、フョードル・ドストエフスキー、ヴィクトル・ユーゴー、エドモン・ロスタン、フリードリヒ・シラーなどの作家にも出会い、これらの作家の作品を長く愛読した[17]。