イングランドの教会がイングランド国教会としてカトリックから独立した際、アイルランド内の教会も同様に教義が変更されプロテスタント化した。聖公会はアイルランド人の大半がカトリック信仰を忠実に守る中(今日でもアイルランド人の大半はカトリックである)であったものの、国教と定められた。また、アイルランドの教会財産のほぼすべてはアイルランド聖公会に引き継がれることとなり、そのため今日でもアイルランド内の教会や教会が保有する財産の多くを所持している。その後もアイルランド内では少数派でありながらも国教の地位にあったが、これは1871年1月1日に自由党政権ウィリアム・グラッドストン内閣時におけるアイルランド自治拡大の一環として国教が廃止されるまで続いた。
今日、アイルランド聖公会はアイルランド島でカトリックに次いで2番目に大きな教会である(北アイルランドではカトリック、長老派教会についで3番目)。運営機構は、一般人と聖職者の総会
によって運営され、12の主教区に分けられている。現在、聖公会の最高権威であるアーマー大主教(英語版)(全アイルランド首座主教(英語版))にはアラン・ハーパー(英語版)が、もうひとつの大主教であるダブリン大主教にはジョン・ネイル(英語版)が就任している。アイルランドのキリスト教会の起源は、432年(西ローマ帝国末期)の聖パトリキウスによる伝道にまでさかのぼる。中世初期にはアイルランドはケルト系キリスト教の中心として隆盛した。修道院中心の体制と独自の暦法や慣習などを持ち、ローマ・カトリック教会とは一風異なる一勢力を築いていたが、大きな目で見れば西方教会の一派ではあった。また、当時まだカトリック(ローマ・カトリック教会および正教会を含む、公同の教会)と東方諸教会の決定的分裂が起きていなかったこともあり、コプト教会(現コプト正教会)やシリア教会(現シリア正教会)ともつながっていた。
9世紀頃にアイルランドはたび重なるヴァイキングの襲撃に曝されて修道院が衰退するとともに、イングランドやヨーロッパ大陸からベネディクト会やアウグスチノ会などローマ・カトリック教会の勢力が進出した。1155年に教皇ハドリアヌス4世が発布した教皇勅書『ラウダビリテル
(英語版)』によってアイルランド支配の宗教的な正当化の根拠を獲得したヘンリー2世は1171年にアイルランドへ侵攻し、イングランド王として初めてアイルランドに上陸して、教皇から授けられていたアイルランド卿(Lord of Ireland)の地位に基づき支配を開始した。以後アイルランドにはイングランドの支配が次第に及んでいき、同時にアイルランドの教会に対するローマ・カトリック教会の支配も進んだ。中世後期にはアイルランド独自の教会組織や伝統はほとんど消滅し、アイルランドはローマ・カトリック化された。宗教改革の只中である1536年、ヘンリー8世はアイルランド議会からアイルランド国教会の首長に指名された。ヘンリーの子エドワード6世の下でイングランド国教会のプロテスタント化が進行するのに伴い、アイルランド国教会においてもプロテスタント化が進められた。エリザベス朝の宗教統一においては、2名を除いて主教全員がこれを受け入れ、アイルランド国教会において使徒継承があるとした。またイングランド国教会と、カトリック教会が疑っていたカンタベリー大主教マシュー・パーカーの叙任(聖別)の形式の正当性について(ナグスヘッドの作り話。イングランドは叙任においてローマの許可とそれが決める方式をとっていなかった。しかし、パーカーを聖別した4人のうち2人は1530年代にはローマ定式書
(英語版)を使っていた)は関係がないとした(つまりマシュー・パーカーの聖別を正式なものと認めた)。