アイルランド社会の上層部を占めていたイングランドからの入植者(アングロ=アイリッシュ)を中心にアイルランド国教会は信仰されたが、大多数のアイルランド人はカトリックのままであり、現代に至るまでカトリック教徒はアイルランド全体での多数派であり続けている。なお、北アイルランドに多いスコットランドからの入植者(スコッツ=アイリッシュ)は、主に長老派教会を信仰する。 宗教改革以前よりアイルランド国教会の一部の聖職者は聖職者議員
連合王国の成立以降
1833年、イギリス政府はアイルランド国教会の教区を、大主教区と主教区合わせて22あったものを12に減らし、教区に使う歳出とその地域におけるアイルランド国教徒(全体から見れば少数派)の監督を統合した。これは聖公会系教会に広い影響を及ぼしたオックスフォード運動の一因となった。この統合により、カトリックの司教区とほぼ同じ形で存在していた主教区はその形を変えることとなり、また同時に4つあった大主教管区もトゥアム大主教管区とキャセル大主教管区が統合で消滅、現在の北部大教区(アーマー大主教管区)と南部大教区(ダブリン大主教管区)の2つとなっている。
国教の地位にあるアイルランド国教会は、全体では少数派であるという事実を無視する形で、その歳入を全アイルランド住民に課せられていた十分の一税から得ていた。しかし十分の一税は1831年から1836年に起こった十分の一税戦争(英語版)のような爆発につながる要因の一つでもあった。その後十分の一税は廃止されたが、より軽い税である十分の一地税(tithe rentcharge)と呼ばれる税に取って代わった。1869年にアイルランド国教廃止法(英語版)が可決され、1871年に施行されると、アイルランド聖公会は国教としての役割を終えた。聖公会はアイルランド政府の支援と政府への影響力を失い、また多くの教会とその財産を政府に明け渡した。それらの補償は聖職者たちに与えられたものの、多くの小教区は使用料を生み出して財政に貢献していた土地と建物を喪失したことにより、非常につらい経済状態に置かれた。1870年にアイルランド聖公会は総会によって運営される統治機構と、財政管理を担当する教会代表法人(Representative Church Body)を制定した。
ほかのアイルランド教会と同様、アイルランド聖公会も1920年にアイルランドが独立(英語版)しても分裂を起こさず、今日に至るまで島全体において同じ規則の下で運営されている。
今日のアイルランド聖公会ソール(英語版)の教会。アイルランド円塔(英語版)をもつ初期の教会を20世紀に復元したもので、聖パトリックが初めてアイルランドに教会を立てたとされる場所に作られた。
現在のアイルランド聖公会は高教会派(これはしばしばアングロ・カトリック主義とも呼ばれる)に属する小教区をいくつか含んではいるが、聖公会の中では低教会派に属しているとされる。歴史的に見ても教会の姿勢について教区間で多少の違いがあったが、ここ数十年で高教会派や福音派(低教会の中の福音派)のなかでもいくつかの際立って自由主義的な教区では大きな変革があった。これはアングリカン・コミュニオンにおいてはニュージーランド大教区(英語版)が1857年に認められ、1871年に廃止されて以来の大きな出来事[5]であり、1991年に初めて女性を司祭に任じた大教区の一つでもあった。
アイルランド聖公会は2つの大聖堂(カテドラル=主教座聖堂)をダブリンに保有しており、市壁跡の内側にあるのがクライストチャーチ大聖堂(ここにはダブリン大主教の主教座=カテドラがある)で、ちょうど市壁の外側にあるのが聖パトリック大聖堂(1870年に国立大聖堂に指定された)である。なお、大聖堂はほかの主教区にも一つずつ存在する。また、教会はダブリン南部の郊外にあるラスガー(英語版)にアイルランド聖公会神学校(Church of Ireland Theological College)を運営しており、教会の中央事務所はラスマインズ(英語版)にアイルランド聖公会教育学大学(Church of Ireland College of Education)と隣接してある。