宗教改革の只中である1536年、ヘンリー8世はアイルランド議会からアイルランド国教会の首長に指名された。ヘンリーの子エドワード6世の下でイングランド国教会のプロテスタント化が進行するのに伴い、アイルランド国教会においてもプロテスタント化が進められた。エリザベス朝の宗教統一においては、2名を除いて主教全員がこれを受け入れ、アイルランド国教会において使徒継承があるとした。またイングランド国教会と、カトリック教会が疑っていたカンタベリー大主教マシュー・パーカーの叙任(聖別)の形式の正当性について(ナグスヘッドの作り話。イングランドは叙任においてローマの許可とそれが決める方式をとっていなかった。しかし、パーカーを聖別した4人のうち2人は1530年代にはローマ定式書
(英語版)を使っていた)は関係がないとした(つまりマシュー・パーカーの聖別を正式なものと認めた)。アイルランド国教会はイングランド国教会よりも一層根本的に、カルヴァン主義への転換が行われた。後のアーマー大主教であるジェイムズ・アッシャーは『Irish Articles』を著し、これは1615年に採択された後1634年、アイルランド主教区会議においてもイングランドの39ヶ条とともに教義とされた。1660年の王政復古後も39ヶ条は優位であったようで、国教から廃止された後も公式教義であり続けている[4]。
アイルランド語訳聖書の刊行も教会が行い、初のアイルランド語訳新約聖書の作成はオソリ主教(英語版)のニコラス・ウォルシュが行っていたが完成前の1585年に死亡したため、翻訳作業はその部下であったジョン・カーニーとトゥアム大主教(英語版)ネヒミア・ドネアンが引き継いだ。その後この作業はドネアンの後任のトゥアム大主教であるウィリアム・オッドムニュイル(ウィリアム・ダニエルとも)に引き継がれ完成し、1602年に出版された。旧約聖書についてはキルモア主教(英語版)であるウィリアム・ベデル(英語版)(1571年 - 1642年)によって行われており、チャールズ1世の時代には完成していたが、1680年まで刊行されなかった。なお、1680年に刊行されたものはダブリン大主教ナーシサス・マーシュ(英語版)(1638年 - 1713年)による改訂版であった。ベデルはほかにも聖公会祈祷書の翻訳も1606年に行っている。イングランド国教会において祈祷書は1662年に改訂されたが、この翻訳はジョン・リチャードソン(1664年 - 1747年)によって行われ、1712年に刊行された。
アイルランド社会の上層部を占めていたイングランドからの入植者(アングロ=アイリッシュ)を中心にアイルランド国教会は信仰されたが、大多数のアイルランド人はカトリックのままであり、現代に至るまでカトリック教徒はアイルランド全体での多数派であり続けている。なお、北アイルランドに多いスコットランドからの入植者(スコッツ=アイリッシュ)は、主に長老派教会を信仰する。 宗教改革以前よりアイルランド国教会の一部の聖職者は聖職者議員
連合王国の成立以降
1833年、イギリス政府はアイルランド国教会の教区を、大主教区と主教区合わせて22あったものを12に減らし、教区に使う歳出とその地域におけるアイルランド国教徒(全体から見れば少数派)の監督を統合した。これは聖公会系教会に広い影響を及ぼしたオックスフォード運動の一因となった。この統合により、カトリックの司教区とほぼ同じ形で存在していた主教区はその形を変えることとなり、また同時に4つあった大主教管区もトゥアム大主教管区とキャセル大主教管区が統合で消滅、現在の北部大教区(アーマー大主教管区)と南部大教区(ダブリン大主教管区)の2つとなっている。
国教の地位にあるアイルランド国教会は、全体では少数派であるという事実を無視する形で、その歳入を全アイルランド住民に課せられていた十分の一税から得ていた。しかし十分の一税は1831年から1836年に起こった十分の一税戦争(英語版)のような爆発につながる要因の一つでもあった。その後十分の一税は廃止されたが、より軽い税である十分の一地税(tithe rentcharge)と呼ばれる税に取って代わった。1869年にアイルランド国教廃止法(英語版)が可決され、1871年に施行されると、アイルランド聖公会は国教としての役割を終えた。聖公会はアイルランド政府の支援と政府への影響力を失い、また多くの教会とその財産を政府に明け渡した。