アイルランド共和軍
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第二次世界大戦においてアイルランドは公式には中立の立場を取ったが、IRAはこの時期にナチスの援助を求めて代表者がドイツに渡航するなどしており、北アイルランドに対する攻撃について対独協力していたとの指摘もある。

ドイツと同じ枢軸国である日本がシンガポールを陥落させると(シンガポールの戦い)、IRA幹部で後に上院議長となったトム・マリンズらがダブリン駐在日本領事を囲んで祝賀会を開いた。このほかアイルランド政府も大戦中、日本の在欧外交拠点に対して送金に便宜を図るなど支援した[1]
IRA暫定派の分裂と北アイルランド紛争詳細は「IRA暫定派」を参照

戦後、公民権運動に対するユニオニストによる攻撃や警察による取締を受け、これに対抗する形で統一アイルランドの実現を目指すIRAはその活動を再開[2]。1956年から1960年代初頭にかけては「ボーダー・キャンペーン」と呼ばれる一連のゲリラ攻撃を行った。しかし、一般からの支持を得られず、成果は出なかった。これにより、組織内部で方向性の違いが顕在化し、1969年から1970年にかけて、完全な武装闘争主義で行くべきとする一派と、政治的に統一アイルランドを達成すべきとする一派とが分裂した。前者が「IRA暫定派」となり、1970年代から1990年代にかけての一般に「北アイルランド紛争」と呼ばれる事態において最重要視される勢力である。

IRA暫定派は、1971年に導入された治安当局による一斉拘留(インターンメント)や1972年1月30日にロンドンデリーで発生した「血の日曜日事件」など、「イギリスによるアイルランドへの暴力的抑圧」を背景に人員と規模を拡大させ、プロテスタント系武装組織や北アイルランドに駐留する英軍や北アイルランド警察(ほとんどがプロテスタント教徒であった)にゲリラ攻撃を加えた。

1976年3月13日、「英国市民に対する攻撃を強化する」と宣言した前後から、ロンドン市内の鉄道を標的とした爆弾テロを始め[3]、イギリス本土(ブリテン島)にも拡大させた。1984年10月の「ブライトン爆弾テロ事件[注釈 5]」など、王室や政府を狙ったものから、一般市民を狙った無差別なものまで数々のテロ事件を行った。ロンドンなどイングランドの大都市の公共交通機関も頻繁に標的になり、また、ロンドンのシティやドックランズ地区といった経済的に重要な場所でも大規模な爆弾テロが行われた。マンチェスターバーミンガムといった地方都市でも爆弾テロは起きている(詳細は英語版ウィキペディアの年表を参照)。他方では、弾圧政策を行うイギリス政府に対する反感もあって、過激なテロ行為にもかかわらず北アイルランドのカトリック系住民からのIRA暫定派に対する支持には根強いものがあった[2]

1916年のイースター蜂起での独立宣言にも見られるように、歴史的にIRAはマルクス主義的な側面を有してきたが(また前述の通りナチスと手を組んだこともある)大戦後の東西冷戦の構図の中、IRA暫定派はソ連リビアからの軍事的支援を受けて闘争を続け、同様の民族闘争を繰り広げていたスペインETAや、イタリア赤い旅団などの極左テロ組織との交流もあった。しかし、冷戦が終結するとこういった構図は壊れ、アメリカでのアイルランド系住民による募金などの民間支援といった形を除いては、IRAを表向きに援助する勢力はなくなった。更にアメリカ同時多発テロ事件によってテロ組織に対する締め付けが厳しくなったことで、2000年代以降はそうした募金もなくなっていったと言われる。

一方で、マーガレット・サッチャー政権時代は強硬な対決姿勢が取られたが、一方で常に和平への取り組みが模索されており、1970年代にはイギリス政府とIRA幹部らとの秘密交渉も行われていた。1990年代、サッチャー退陣後のジョン・メージャー政権で和平へ向けた動きが加速。1993年12月にイギリス政府とアイルランド政府がシン・フェイン党の地位を認め、和平協議への参加を認める条件としてIRAに停戦を求める宣言(ダウニング街宣言)をだしたことから、1994年8月にIRA暫定派は停戦を宣言した[2]1996年に一度破られた(動きが遅々として進まなかったことへの抗議だと解釈される)ものの、アメリカのミッチェル元上院議員を議長とする国際委員会の提案に従うかたちで、1997年7月20日に再び停戦[2]。同年、労働党トニー・ブレアが首相となったことで、和平プロセスが加速、1998年4月10日にベルファスト合意が成立し、この取り決めに基づいてアイルランドは国民投票を実施、賛成多数で北アイルランドの領有権主張を放棄した[2]
現況

国民投票後も和平合意に含まれていたIRAの武装解除が進展しないことから、2000年2月にはイギリス政府が自治政府の機能を停止して直轄統治を復活させる強硬処置に出た[2]。これを受けて同年5月にIRA暫定派は段階的な武装解除を表明し独立国際武装解除委員会の受け入れにも応じた。2005年7月25日には同委員会によって武装解除が確認され、7月28日に武装闘争の終結を宣言、実質的な活動を停止した[2]

しかし、CIRA(継続IRA)やRIRA(真のIRA)は、合意になおも反対し散発的な活動を行っている[2]。特に後者は、設立直後から北アイルランドにおいて車爆弾を用いた無差別テロを繰り返した。1998年に発生したオマーのショッピング街で起こした無差別テロでは、29人の市民が死亡、200人以上が負傷している。これは過去30年間の北アイルランド紛争における最大級のテロ事件のひとつだった(単一の爆弾で最大の犠牲者を出した)。RIRAはバルカン半島からアムステルダムを経由してアイルランド及びイギリスへの武器の密輸に積極的に従事している。密輸品の中にはRPG-22のような対戦車兵器もあり、2000年9月20日にはロンドン中心部の秘密情報部(MI6)本部の8階に発射される事件がおこった。

2007年5月のUVFの活動停止宣言と、プロテスタント系とカトリック系が権限を分担する形での北アイルランド自治政府の復活が実現した後には、CIRAおよびRIRAなどの活動停止宣言があるとの観測が一部メディアに流れたが、実際にそのような宣言の予定はないと即座に否定されており、最終的にどのような決着をみるかは不透明である。

なお、2003年11月の北アイルランド自治議会選挙では、事前に武装解除宣言を行っていたことにより、IRA暫定派の政治組織であるシン・フェイン党が躍進を遂げ、社会民主労働党(SDLP)に代わってカトリック系(ナショナリスト系)で第一党となった。2007年1月には旧来の姿勢を転換して警察への協力を党大会で決議し、同年3月の自治議会選挙ではシン・フェイン党はさらに議席を伸ばした。同年5月に復活した自治政府では、カトリック系第一党として副首相など重要なポストを担っている。

2017年11月時点で、IRA暫定派の武装活動は確認されていないが、ブレグジットによってアイルランドと北アイルランド間の国境管理が再開されれば、RIRAやCIRAを始めとする過激派武装闘争が再燃するのではないかという懸念もなされている。
関連作品

この中には便宜的にIRAの名前を使っただけでストーリーとは関係のない作品もある。特にハリウッドでは 9.11以前はIRAをよく使用していた。

映画『
男の敵』(1935年 監督 : ジョン・フォード、主演:ヴィクター・マクラグレン

映画『邪魔者は殺せ』(1944年 監督:キャロル・リード、主演:ジェームズ・メイスン

漫画『ゴルゴ13』(1968年 - 作:さいとう・たかを

映画『夕陽のギャングたち』(1971年 監督:セルジオ・レオーネ、主演:ロッド・スタイガージェームズ・コバーン

映画『地獄の殺戮都市』 (1974年 監督:ミラド・ベサド、主演:マーゴット・キダーバリー・フォスター

ドラマ『刑事コロンボ「策謀の結末」』(第45話(最終話)、1978年 監督:レオ・ペン、主演:ピーター・フォーク

映画『長く熱い週末』(1981年 監督:ジョン・マッケンジー、主演:ボブ・ホスキンス

映画『ハリーズ・ゲーム』(1982年 ITV (イギリス)制作、主演:Ray Lonnen、主題歌:クラナド


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