アイルランド共和国_(1919年-1922年)
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“Saorstat Eireann” は英愛戦争終結後にアイルランド自由国が建国された際、公式なアイルランド語名称として採用された。しかしながらアイルランド自由国は大英帝国内にある立憲君主制の国で、共和国ではなかった。これ以来、“saorstat” は “republic”、つまり共和国を指す語としては使用されなくなった。アイルランドの国家が名前を「アイルランド」に変更した後、1949年にこの国は「アイルランド共和国」であるとされ、アイルランド語では “Poblacht na hEireann” と翻訳された。

ウィンストン・チャーチルは『大戦後日譚:外交秘録』(The Aftermath) の中で、1921年7月14日にエイモン・デ・ヴァレラデビッド・ロイド・ジョージが最初に会見した時の様子を叙述している[8]。チャーチル本人もこの場に出席していた。ロイド・ジョージはウェールズ語の母語話者でウェールズ語研究家としても知られており、このため “Saorstat” の文字通りの意味に関心があった。 デ・ヴァレラは「自由国」という意味だと返答した。ロイド・ジョージは「共和国を示すアイルランド語は何ですか?」とたずねた。ヴァレラが答えずに間があいてしまったのでロイド・ジョージは「ケルト人は共和主義者だったことなどないし、そういう考えを示す言葉をもともと持っていないと我々は認めねばならないのでは?」と意見を述べたという。

ロングフォード卿は実際にこの場にいなかったが、著書 Peace by Ordeal で異なる話を伝えている[9]。それによると、「デ・ヴァレラの心にあった唯一の疑念というのは、本人がロイド・ジョージに説明したように、共和国という理念が “Saorstat” という広い言葉か、もっと抽象的な “Poblacht” という言葉のどちらでよりよく伝えられるかという、そのときのゲール純粋主義者の間で行われていた議論から起こったものであった」ということである。
成立

1916年、イースター蜂起に参加していたナショナリストの反逆者たちは、アイルランド共和国宣言を発布した。この宣言により反逆者たちは「アイルランド共和国」という一つの独立した国を建国することを主張した。そして、イースター蜂起の指導者たちは、人々が国の議会において選挙することが可能になるまで「アイルランド共和国の臨時政府」として務めることを宣言した。イースター蜂起は短期間で大部分がダブリンであり、その蜂起が起こった時には、アイルランドの一般市民の支持をほとんど得られなかった。

イースター蜂起の指導者たちは共和制を宣言した。アーサー・グリフィスのシン・フェイン組織は、アイルランドとイギリスの二重君主制設立を支持し、蜂起には参加しなかった。1917年、グリフィスとエイモン・デ・ヴァレラのもとの共和制主義者たちは、新しいシン・フェイン党という形で統合した。統合することは、1917年のアイルランドの政党の協議会で決まった。協議会で、シン・フェイン党は短期的には独立した共和国の設立実行に賛成した。アイルランドの人々が好む政治形態を決める機会が与えられるまでということだった。この協定は、もしアイルランドの人々が共和制を選んだとすると英国王室の成員が誰も君主として招聘されないということを条件とした。

1918年の総選挙で、多くの1916年の蜂起に参加した者も含むシン・フェイン党の急進派の候補者たちは、「シン・フェイン党は、共和国の設立を確実にすることを狙いにしている」という内容も含むマニフェストを発表した。そのマニフェストでは、イギリス議会をボイコットし、その代わりに一方的にダブリンに新たなアイルランド議会を設立するつもりだとも主張した。シン・フェイン党の候補者は議席の大半を得て(105議席のうち73議席、そのうち25議席には対立候補がいなかった。1919年の1月21日、27人のシン・フェイン党議員がアイルランドの下院ドイル・エアランを設立するためにダブリンのマンション・ハウスに集まった。35人の他の議員は、対外の敵により収監中と記録された。そして、他の4人は外敵による国外退去中とされた。37人の他の議員は、出席していないこととされた。これらは、主にのちに北アイルランドとなる北部の6県からだった[10]。この下院会議でアイルランド独立宣言が採択された。1916年のイースター宣言のために、アイルランドの下院は遡及的に1916年のイースターからアイルランド共和国を設立した。

独立宣言の発布と同日、ダン・ブリーンとショーン・トレーシーにより率いられたアイルランド義勇軍のティペラリー第三部隊の隊員が実行したティペラリーソロヘッドベッグでの奇襲で、ゼリグナイトの荷車の護衛をしていた王立アイルランド警備隊の2人の隊員が殺害された。この奇襲は、ドイルによる命令ではなかったが、これらの出来事の進行のせいで下院はすぐに義勇兵をアイルランド共和国陸軍として認めるように動かざるをえなかった。そして、このようにソロヘッド事件は宣戦布告なしの義勇軍と大英帝国の間のアイルランド独立戦争の幕開けとなった。
政府機構
ドイル・エアラン

共和国の中心機関はドイル・エアランであった。これは1918年の総選挙で選ばれたアイルランド議会議員が多数をしめる一院制議会であった。ダブリン城の英国政府組織の長であるアイルランド総督によりさらに2回、選挙が要求された[11]。ナショナリストはこれをドイルの選挙として扱った。第二ドイルは1921年の北アイルランドおよび南アイルランド議会選挙で選出された議員からなっていた。第三ドイルは英愛条約で規定されているように、1922年の総選挙で「南アイルランド」の「暫定議会」として選出された。

最初の招集でドイルはドイル憲法として知られる暫定憲法を信条として採択し、民主政綱 (Democratic Programme) をはじめとする一連の基本法も定めた。独立宣言も通過させた。
内閣

ドイル憲法は "Aireacht" あるいは "Ministry" と呼ばれる内閣に行政権限を賦与した。この内閣はドイルに義務を負い、ドイルが長を選ぶ。この長は当初、「ドイル・エアラン議長」(プリオム・エール)と呼ばれていた。議長は大臣を任命する。1919年1月に制定された憲法初案によると、4名の大臣がいた。

財務大臣 (Aire Airgid)

内務大臣 (Aire Gnothai Duthchais)

外務大臣 (Aire Gnothai Coigcrioch)

国防大臣 (Aire Cosanta)

1919年4月、内閣は最大9名までということで人数を増加させた。1921年8月に共和国大統領という職名の国家元首を作ることとからめて、最終的な大規模改正が行われた。6名からなる内閣が作られることになった。閣僚は以下の通りである。

財務大臣

外務大臣

内務大臣

国防大臣

地方政府大臣

経済大臣

コンスタンツ・マルキエビッチ(ヨーロッパで初めて任命された女性大臣であった)に代表されるような、以前の内閣構成員の多数が次官クラスに格下げされた。政体は機密と安全が守られる範囲内の頻度で閣議を実施した。
国家元首/政府の長

当初は共和主義者と君主制支持者の間で意見が分かれていたこともあり、アイルランド共和国には国家元首がいなかった。


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