アイルランド共和国(アイルランドきょうわこく、アイルランド語: Poblacht na hEireannまたはSaorstat Eireann[1]、英語: Irish Republic[2])は、1919年1月にイギリスからの独立を公言した革命により樹立された国家であった[3]。
理屈の上ではアイルランド共和国はアイルランド島全体をその領土としたが、1920年までに実効的な支配が及んだのはアイルランドの32の県の内わずか21県であった[4]。そして、イギリスの国家の支配力は北東だけでなくコーク、ダブリンそしてその他の主要な都市のほとんどにわたって存在し続けた。共和国の始まりの日は1916年のイースター蜂起に遡る。その蜂起でアイルランドの共和主義者たちはダブリンの重要な場所を手にし、アイルランド共和国を宣言した[5]。反乱は鎮圧されたが、生存者は共和国設立を訴えるキャンペーンを実施すべくシン・フェイン党を改革して結集した。シン・フェイン党は1918年の総選挙で圧勝して明らかな過半数を勝ち取り、1919年1月21日にダブリンで第一ドイル(立法議会)を作った。この際に共和主義者が政府 (Aireacht)、裁判システム、警察も作った。同時にアイルランド義勇軍がドイルの支配下に入り、アイルランド共和国軍と呼ばれるようになって、英国軍に対するアイルランド独立戦争を闘うこととなった。
アイルランド独立戦争は1921年12月6日に調印され、1922年1月7日に僅差でドイル・エアランによって承認された英愛条約によって終結した。暫定政府が条約にもとづいて設置されたが、アイルランド共和国は1922年12月6日まで名目上は存在していた。この日にアイルランド島の32県のうち26県が自治権を持った英国の自治領としてアイルランド自由国を名乗るようになった。アイルランド島は1920年のアイルランド統治法によって分割され、北アイルランドの6県は条約に定められた権限を行使してアイルランド自由国に入らず、連合王国に留まった[6]。 英語では革命政権は “Irish Republic” と呼称された[2]。アイルランド語では “Poblacht na hEireann” と “Saorstat Eireann” の2種類の名称があった。これは “republic” という英単語をアイルランド語に訳した際に2種類の訳語ができることによる。アイルランド語の "poblacht" は新語で、1916年のイースター蜂起の宣言文執筆者によって作られた[7]。また、“saorstat” はアイルランド語の “saor”(自由)と “stat”(国)からなる複合語である。字義通りに翻訳すると「自由国」になる。“Poblacht na hEireann” という言葉は1916年の宣言文で使われていたが、アイルランド独立宣言や1919年に採択されたその他の文書では “Saorstat Eireann” が使用されている。 “Saorstat Eireann” は英愛戦争終結後にアイルランド自由国が建国された際、公式なアイルランド語名称として採用された。しかしながらアイルランド自由国は大英帝国内にある立憲君主制の国で、共和国ではなかった。これ以来、“saorstat” は “republic”、つまり共和国を指す語としては使用されなくなった。アイルランドの国家が名前を「アイルランド」に変更した後、1949年にこの国は「アイルランド共和国」であるとされ、アイルランド語では “Poblacht na hEireann” と翻訳された。 ウィンストン・チャーチルは『大戦後日譚:外交秘録』(The Aftermath) の中で、1921年7月14日にエイモン・デ・ヴァレラとデビッド・ロイド・ジョージが最初に会見した時の様子を叙述している[8]。
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