アイルトン・セナ
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しかしレースへの情熱は冷めがたく、ブラジルでの生活を強く希望した妻リリアンと両者合意の上で離婚し、1982年2月に単身で再度イギリスに渡った[18]。1982年シーズン、セナはフォーミュラ・フォード2000に転向し、イギリス選手権とヨーロッパ選手権でチャンピオンとなった[19]。1982年のフォーミュラ・フォード2000はF1の前座として開催されることも多く、セナは5月にゾルダージル・ヴィルヌーヴの死亡事故を目の当たりにし、数ヶ月後のホッケンハイムでもディディエ・ピローニの大事故に居合わせた[20]
F3マカオGP優勝車

1983年シーズン、セナはイギリスF3選手権ウエストサリー・レーシングから参戦し、シーズン前半は連勝を続け選手権首位を独走した。しかし後半戦以降はエディ・ジョーダン・レーシング所属のマーティン・ブランドルがセナとの差を縮め、両者の関係が険悪になるほどの激しいタイトル争いとなったが、最終的にセナが僅差でチャンピオンを獲得した[21]。最終成績は、20戦中12勝という当時の最多勝記録だった。

また、初めてF3規格で開催されたマカオGPセオドールから参戦し、2ヒートを連取して優勝した。この年のマカオGP予選でセナが記録したタイムは、1990年ミカ・ハッキネンミハエル・シューマッハが更新するまで、7年にわたりコースレコードであった。

なおセナがイギリスF3王者・マカオGP優勝者となったときのマシンはいずれも、トヨタ・2T-Gエンジンを搭載していた[22]

この頃から、父方の姓「ダ・シルバ」ではなく母方の姓「セナ」を表向きに名乗るようになる。
F1
デビュー前の交渉

F1へステップアップする際には、マクラーレンウィリアムズブラバム[23]のマシンテストに招かれ[24]交渉し、当初ブラバム入りが有力となるも、当時ブラバムのエースで前年チャンピオンであるネルソン・ピケが反対したため実現しなかったとの説があった[25]。ブラバムのボスだったバーニー・エクレストンによると、1983年オフのテストで何名かの若手をテストし[注釈 2]、一番速かったセナをエクレストンも強力に欲していた。しかしメインスポンサーのイタリア乳製品企業「パルマラット」がチームの2名ともブラジリアンになる事へ難色を示し、1人はヨーロッパドライバーにとの要求があったため[26]、エクレストンはイタリア人のテオ・ファビをピケのサポート役に決定。セナのブラバム入りはご破算となった。その後、複数チームとの交渉を経て、デレック・ワーウィックを移籍で失ったトールマンと契約締結しF1デビューが決まった。
トールマン時代トールマンTG184・ハート
1984年

初戦ブラジルGPは前年型のTG183で出場。ターボトラブルでリタイアしたが、第2戦南アフリカGPで6位に入り、初入賞を達成。しかし前年型マシンはワーウィックやブルーノ・ジャコメリに合わせて作られておりステアリングが重く、腕力を必要としたため、まだ線の細かったセナは体力面で苦労をしていた[注釈 3][映像 1]。第4戦サンマリノGPではチームがピレリからミシュランへとタイヤメーカー契約を変える際の契約トラブルも重なり、キャリア唯一となる予選落ちを喫している。第5戦からニューマシンTG184が投入されると、大雨でハーフレースとなった第6戦モナコGPでは、予選13位から追い上げ2位でフィニッシュ。自身とトールマンにF1初の表彰台をもたらすと同時に、自身初のファステストラップも記録した[27]

第10戦イギリスGP・最終戦ポルトガルGPでも3位に入り、計3度の表彰台を経験。またティレル勢の「水タンク事件」による記録抹消に伴い、7位で完走していた第3戦ベルギーGPが6位に繰り上がったため、入賞は参戦した15戦中5レースとなった。予選最高位は、ポルトガルGPでの3位グリッドだった。

マシントラブルやF1での経験不足から安定した結果は残せなかったが、第8戦デトロイトGPでの予選7位、第9戦ダラスGPでの予選6位から一時4位走行、ドイツGPでの一時5位走行等、市街地コースを中心に速さを垣間見せることとなった。リタイヤは8回を数えたが、それでもランキングでロータスナイジェル・マンセルと並び9位に入った。

シーズンの途中で翌年からのロータス移籍を発表するが、トールマンとは3年契約を結んでいたため二重契約として問題になった。結局はロータスとセナがトールマンに違約金を支払い、セナ自身に1レースの出走禁止の処分を課すことを条件に翌年からのロータス移籍は実現した。この影響でセナは第14戦イタリアGPピエルルイジ・マルティニにシートを明け渡した。実質上の代役はステファン・ヨハンソンであるが、イタリアGP後怪我で出走出来ないジョニー・チェコットの代役の座に移った。そのためイタリアGPのみヨハンソンがカーナンバー19のセナのマシンに乗っている。

また、この年にはF1とスケジュールが重ならなかった6月15日WEC第4戦ニュルブルクリンク1000kmレースにヨースト・レーシングのNEWMANポルシェ・956アンリ・ペスカローロ、S.ヨハンソンとのチーム)で参戦し、これがグループCカー及び耐久レースへの唯一となる参戦歴となっている(予選9位/決勝8位)[28]
ロータス時代
1985年

当時名門に数えられていたロータスに移籍し、F1通算16戦目となる第2戦ポルトガルGPで自身初のPPを獲得した。豪雨となった決勝でもスタートから終始トップを走行し、2位のミケーレ・アルボレートに1分以上の差をつけ、3位以下は全て周回遅れにする独走でF1初優勝を果たした[29]。しかしシーズン前半は安定感に欠け、入賞レースはポルトガルGPのみだった。一方で、セナの速さはFLや連続PPなどの記録として表れ始めた。

シーズン後半には決勝レースでの結果も安定し、第10戦オーストリアGPから5戦連続で表彰台に立つ。特に、雨となった第13戦ベルギーGPでは、予選2位からスタートでトップを奪い、以後ゴールまで独走というポルトガルGPと類似した展開で自身2勝目を挙げた。マシントラブルやガス欠などにより、予選でのPP7回に対し優勝は上記の2回のみとなったが、シーズン後半に安定してポイントを積み重ねたことで、ロータスのエースだったエリオ・デ・アンジェリスを上回るランキング4位となった。

「予選」と「雨」に強さを見せた一方で、車体下面・後方から立ち上がる火花などからマシンのレギュレーション違反が疑われて[注釈 4]検査がなされたり(違反項目は見つからず)、ダーティーな走りが問題にされる一面もあった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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