ナポレオンは自軍の情勢が不利であることを省みて「このままだと、退却もやむなし」を決意していた[7]。退却は甚だ不本意である。ロシア側はここぞとばかりに『ナポレオン不敗神話の終焉』を宣伝するだろうからだ。だが、ナポレオンはこのポーランド片田舎の雪中で、手塩をかけて育てた大陸軍(ラ・グランダルメ)の軍勢をすり潰す訳にはいかなかったのだ。
しかし、事態は思わぬ方向へと動く。ベニグセンはフランス軍の力を誤認し、その夜の内に全軍を撤退させてしまったのである。
これを知ったナポレオンは即座に大勝利の報をパリへと送ったが、無論、本当の勝利は掴んでいなかった。 ロシア軍の攻撃によりオージュロー元帥が重傷を負うなど、あやうくフランスの大敗北になるところであった。プロイセン・ロシア連合軍は15,000名の死傷者を出し、フランス軍も25,000名の死傷者を出して損害はフランス軍の方が多い[7]。 この会戦で常勝フランス軍が痛み分けに甘んじたことはヨーロッパ中に知れ渡ったが、その後ナポレオンは軍を立てなおし、雪解け後の5月27日にプロイセンが守るダンツィヒを攻略(ダンツィヒ攻囲戦)し、6月14日にフリートラントの戦いでロシアに大勝した。
結末
参考文献2月25日までの両軍の動き『TACTICS』No10、「大陸軍その光と影 その9 アイラウの戦い」森谷利雄。
作品
『キング・オブ・キングス』(原題『ナポレオン』) - イタリア・ドイツの合作テレビ映画(2002年)。アイラウ戦の描写があり、ミュラーの騎兵突撃シーンを見ることが出来る。
脚注[脚注の使い方]^ a b c 『TACTICS』No10、83頁。
^ 『TACTICS』No10、82頁。
^ 親衛隊にとって近くの味方救出のために行った当然の行動であって、無論、この出動にナポレオンは関与していない。
^ a b 『TACTICS』No10、84頁。
^ 当時の砲は榴弾を用いることが少なく、多くは弾着後は爆発しない鉄の砲丸(ラウンドショット)であり、ボウリングの球のよう地面を跳ねながら敵を薙ぎ倒す物であった。下から撃ち上げた場合、勢いは当然落ちるので効果は半減してしまう上、地面が雪なので(これはロシア軍の砲撃も同じ)砲弾がバウンドしにくい状況も重なっていた。
^ 当時のオージュローは持病のリューマチに苦しんでおり、今回の作戦に不参加を表明していたが、歴戦の勇将である彼を戦列から外すのをナポレオンは好まず、皇帝たっての願いで参加を余儀なくされていたが、さすがに彼とその麾下の第七軍団は、それまで前線投入は避けられていた。『TACTICS』No10、84頁。
^ a b c 『TACTICS』No10、85頁。
関連項目
燻製ニシンの虚偽 - ウィリアム・コベットがナポレオンの敗北を誤報したイギリスの新聞を批判する記事の中で使われたのが始まりとされる。
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