アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない[注 2]。これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、大和民族(和人、シサム・シャモ[注 3])とアイヌとの交易量が増加した17世紀末から18世紀初めにかけての時期とされている。
ウェンペ
アイヌの社会では、本来は「アイヌ」という言葉は行いの良い人にだけ使っていた。悪い同胞を彼らはアイヌと言わず、ウェンペ(悪いやつ)と呼んだ[13]。
地域差
地域によって文化や集団意識が異なり、北海道太平洋岸東部に住したアイヌは「メナシクル」と称し、同様に太平洋岸西部のアイヌは「シュムクル」(シュムは西を意味する)、千島のアイヌは「クルムセ」もしくは「ルートムンクル」などと呼ばれるなど居住地域ごとに互いを呼びわけていた。
時代別の呼ばれ方
大和民族(和人)は、中央政権から見て開拓されていない東方や北方に住む人々を古代中国の呼び名より「蝦夷」、幕末期には「土人(その当時は純粋に「土地の人」や「地元の人」の意味で用いられた言葉であったが、大正時代以降には次第に侮蔑感とともに使われるようになったとされる[14])」と呼称し、次第にこれが渡嶋から北の人々を指す言葉となり「アイノ」(=アイヌ)と同一して呼ばれるようになる。その他にも一般的には「アイヌ人」「アイヌの人々」「アイヌ民族」など様々な呼び名があり、歴史的文書にも色々な言い方がされている。
アイヌの民族形成の過程を「縄文文化と続縄文文化のプレアイヌ」→「擦文文化のプロトアイヌ」→「近世アイヌのアイヌ」→「近代以降のアイノイド」と変化していくと1972 年「典型的なアイヌ文化」(埴原和郎ほか)で規定する枠組みと民族集団形成のモデルが提示された[15]。 ウタリの本来の意味は、アイヌ語で人民・親族・同胞・仲間である[16]が、長年の差別[注 4]の結果、「アイヌ」という言葉に忌避感を持つ人が多いことから、アイヌを指す言葉として用いられることがあり、1961年から2006年にかけ、行政機関の用語としても使用されていた。 朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」をアイヌと捉える向きもあったが、アイヌと古代の蝦夷との関連については未だに定説はなく、日本史学においては一応区別して考えられている。北海道、樺太は遅くとも平安時代末に和人の定着が見られるまでは、多種多様な種族部族のアイヌが分散、集落での対立が多く、統一した民族ではなかった。また、文字が無く、どのような統治状態なのか全く分かっていない。 東北地方の蝦夷(えみし)は和人により古代から征討の対象とされ(蝦夷征討)、平安時代の民夷融和政策により、平安時代後期までには東北地方北端まで平定され和人と同化した[22]。 中世以降、アイヌを蝦夷(えぞ)、北海道・樺太を蝦夷地と称してきた[23]。 また、黒竜江(アムール川)下流域や樺太に居住する他の諸民族から、樺太アイヌは骨嵬(クギ)などと呼ばれていた[24]。 アイヌは、人類学的には日本列島の北海道縄文人と近い。アイヌの人々のもつ形質や遺伝的特徴は、縄文時代にまでさかのぼるものがある一方で、オホーツク文化の強い影響もある[23]。本州以南で農耕文化の弥生時代が始まったころ、北海道では狩猟採集生活様式が継続する続縄文文化の生活様式が営まれていた。大和朝廷による記録として、日本書紀には阿倍比羅夫が齶田/飽田(秋田)・渟代(能代)・津軽の蝦夷を平定し朝貢を受けたこと、渡嶋(現在の北海道と考えられる)へ渡った阿倍比羅夫が当地の蝦夷の要請を受けて、蝦夷と軍事的緊張状態にあった「粛慎」(オホーツク人とする説があるが詳細は不明)を征討したという記事が見られる。7世紀以降東北地方から石狩低地帯への古墳文化人の子孫の移住が見られる。移住者たちは江別古墳群や祭祀に用いる語彙などの痕跡を残したが、地元人と同化したとみられている[25]。この頃より続縄文文化が変化して擦文土器に代表される擦文文化が始まっている[23]。古代の文書に記された「蝦夷」にアイヌが含まれていたかどうかには議論がある[23]が、これら擦文文化やオホーツク文化は、アイヌ文化の原型が見られるものである[23]。 擦文時代には加工具、農耕具、狩猟具、武器、武具、装身具、生活用具として続縄文時代よりさらに多くの鉄器が普及し、石器の使用は減少していった[26]。擦文時代の遺跡からは鍛冶や精錬の遺構がいくつか発見されているが、道南を除きその数は少なくこれらの鉄製品、あるいは半製品は主に本州の東北地方から移入されたものとみられる[27]。鉄器の使用は擦文時代を通じて拡大していった。擦文時代の後期になると擦文人の経済力の拡大を背景に[28]、和人との交易により大量に移入された鉄鍋や漆器が使用されるようになり、それまで自製していた土器[29]も次第に作られなくなっていった。この擦文土器の終焉をもってアイヌ文化期へ移行したものと区分されている。ただし内耳鉄鍋を模倣した内耳土鍋は北海道で15世紀頃まで用いられており[30]、また北千島では18世紀、あるいは19世紀頃まで土器が使用されていたと考えられている[31][32]など、土器の使用が短期間にアイヌの全地域で消滅したわけではない。北海道においては擦文時代からアイヌ文化期にかけて住居もそれまでの竪穴建物から、主に本州の平地建物の影響により、あわせて北方文化の要素も取り入れたチセへ移行する[33][34]。擦文時代の建物に導入されたかまどがすたれ、炊事は囲炉裏でのみ行われるようになる。また、擦文時代には多くの遺跡からキビ・アワ・オオムギの種子や農具としての鎌が出土し、鍬先・鋤先出土(9か所)例も有る[35]など、狩猟採集と並行して農耕が盛んに行われていた。アイヌ文化でもその狩猟採集と農耕の並行が続けられたが、地域差はあるものの農耕はおおむね低調となり、狩猟採集に比べて補助的な役割となった。一方でアイヌ文化においても近世前半までは農耕がより盛んであり、農耕の衰退はアイヌ文化の成立期ではなく、近世後半に起きた現象であるとの分析もある[36]。 このように13 - 14世紀頃には狩猟・漁撈・採集と一部の農耕を組み合わせ、交易を行うアイヌの文化的特色が形成された[23]。擦文文化からアイヌ文化への移行は11世紀に北海道の日本海沿岸で始まり、13世紀にかけて北海道全域に広がっていった[37]。
ウタリ
蝦夷詳細は「蝦夷」を参照
歴史「アイヌの歴史」および「アイヌ史の時代区分」を参照神社のアイヌ