アイヌ
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対策として、政府は1899年に北海道旧土人保護法を施行し、無償医療の提供、冬季生活資糧の給付、土地の無償下付や農具の給付など、様々な救済措置を実施した[39]。しかし北海道は元来、農地に適していない土地が多く、また充分な農業指導が行われなかったため、アイヌの生活改善は遅れた[23]
文化「アイヌ文化」、「ユーカラ」、「アイヌ音楽」、および「アイヌ料理」を参照加納 沖 (OKI (ミュージシャン))

文字や絵を持たなかったことから、アイヌ以外の民族が残したアイヌ絵や残された遺産などが学術資料となる[40]
宗教アイヌの祭壇「ヌサ」。明治後期。イオマンテを描いたアイヌ絵(『蝦夷島奇観』模写、平沢屏山筆、大英博物館蔵)「イオマンテ」を参照

アイヌの宗教はアニミズムに分類されるもので、動植物、生活道具、自然現象、疫病などにそれぞれ「ラマッ」と呼ばれる魂が宿っていると考えた。この信仰に基づく儀礼として、「神が肉と毛皮を携えて人間界に現れた姿」とされる熊を集落で大切に飼育し、土産物を受け取った(殺した)上でその魂を天界に送り返す儀式イオマンテがある。祭壇はヌサとよばれ、ヒグマの頭骨が祀られた。
キリスト教

北千島新知郡占守郡)に住む千島アイヌロシア正教会の神父コウンチェウスキーによって、1747年最初に正教に改宗する者が出た。北千島には聖堂が建てられ、ロシア人宣教師は狩猟民族であったアイヌと一緒の生活を送り、季節毎に島々を移動した。1800年代には、北千島の千島アイヌ160人全てが正教徒になっていた。その後、北千島は日本の領土になったが、国力の乏しい当時の日本にとって生活物資の補給は大変困難であり、開拓使の官吏が北千島の住民を説得し色丹島に移住させた(『千島巡航日記』)。色丹島に移住した千島アイヌに対して最初日蓮宗僧侶が改宗を試みたが失敗した。その後、政府に雇われたロシア正教会の神父が色丹島を訪れ、色丹島のアイヌ人はこれを歓迎し、手厚くもてなした[41]

また、アイヌの父として知られる聖公会の宣教師ジョン・バチェラーは自身の遺稿の中で、アイヌが和人との混血が急速に進んでいることや、アイヌの子供が和人と同様に教育を受け、法の下に日本人となっていることから「一つの民族として、アイヌ民族は存在しなくなった[42]」と記述している。
建築平取町立二風谷アイヌ文化博物館の外の復元チセ(住宅)の写真。二風谷、北海道アイヌの高床倉庫、「プー」。アイヌのチセ(家)・内部(北海道沙流川流域)

アイヌの伝統的な家屋はチセとよばれる、茅葺の掘立柱建物である。家の周囲にはプー(高床倉庫)、アシンル(便所)、ヘペレセッ(熊飼育用の檻)などが設けられ、数家族が寄り集まってコタン(集落)を営んでいた。

アイヌの集落にはチセの他に、チャシと呼ばれるなどで囲まれる空間が造営されることも多かった。造営の目的は未解明な部分が多いが、防御用のであったという説などがあり、これまでに北海道内で500箇所以上のチャシ跡が見つかっている。
衣装アイヌ民族博物館の職員。噴火湾沿岸地方の伝統衣装・ルウンペを着用する

アイヌの伝統衣装はアミ??と呼ばれ、特にオヒョウシナノキの樹皮から取った繊維で織った生地で仕立てた衣装をアットゥシと呼ぶ。仕立ては和服に似ているが、筒袖で衽(おくみ)が無い。装飾として、木綿の生地をアップリケし、さらに刺繍を施すが、模様は北海道各地に系統だったものが存在する。

道南地方、特に噴火湾沿岸地方では長方形に裁断した綿布をアップリケして刺繍した「ルウンペ」。日高地方では紺地の綿布に白い綿布をアップリケして、曲線を多用した模様を描いた「カパ?ミ??」がある。また、綿布の流通が乏しかった石狩川の上流部や十勝地方では、生地に直に刺繍することで模様を描いた「チヂリ」が存在する。さらに繊維用の森林資源にも乏しかった千島列島では、鳥の皮で作られた外套「チカ??ウ?」がある。

江戸時代中期以降は、和人との交易で入手した小袖陣羽織が、儀礼用の衣装として着用された。
口承文芸

アイヌは伝統的に文字を使用せず、生活の知恵や歴史はすべて口承で伝承された。口承文芸としてはユーカラ(ユカ?、叙事詩)などの歌謡と、ウエペケレ(昔話)などの散文に大別される。大正時代にアイヌ出身の知里幸恵がローマ字表記のユーカラと日本語訳を併記して紹介した『アイヌ神謡集』が出版されたほか、金田一京助知里真志保らによるユーカラ研究がある[43]

現在、保存運動によって若手の語り手が育成されている[44]
古式舞踊伝統舞踊を披露するアイヌ。

祭事や祝宴などで演じられた伝統的な踊りで、「ウポポ(歌)」に合わせた「リ?セ(輪舞)」がよく知られている。地域によって曲目や舞い方は異なる。1984年に国の重要無形民俗文化財に指定され、2009年ユネスコ無形文化遺産に登録[45]。また、アイヌ刀を用いた剣の舞もある。
言語「アイヌ語」および「アイヌ語方言」を参照かつてのアイヌ語の分布

アイヌの言語であるアイヌ語孤立した言語であり、日本語とは系統が全く異なる。言語類型論上は、膠着語に属する日本語とは異なり、抱合語に分類される。北海道、樺太、千島列島、東北地方北部に分布していたが、現在ではアイヌの移住に伴い日本の他の地方(主に首都圏)にも拡散している。しかし母語話者は極めて少なくなっており、ユネスコによって2009年2月に「極めて深刻」(critically endangered) な消滅の危機にあると分類された、危機に瀕する言語である[46][47]。危険な状況にある日本の8言語のうち唯一最悪の「極めて深刻」に分類された[注 7]。系統的には「孤立した言語」とされており、縄文時代の言語をそのまま残しているという説がある。文字を持たない民族であったが[注 8]、北海道はもとより、東北地方北部にもアイヌ語地名が多数残っていることから、かつては分布域が東北北部まで広がっていたと考えられている。[要出典]アイヌ語の推定起源と普及

アイヌ語は方言間の差異が小さいため、アイヌ祖語からの分岐年代を1300年前頃と見積り、それゆえアイヌ語がオホーツク人の言語の影響を受けた後に拡散した可能性を提示する説もある[48]。ただし、オホーツク人は遺伝的にニヴフやツングース系民族(ウリチやネギダールなど)と近縁であるとされているが[49]、アイヌ語とニヴフ語やツングース語族との間では一部の単語の借用はあるものの[50]、その系統関係は証明されていない。また、アイヌ語は日本語と異なる特徴を持っているが、文法の類似や発音など似ている点もある。また語彙について人をpitoや骨をpohe、神をkamuyといた人や宗教など根幹に関する言葉が似ているなど日本語の借用とするには疑問を持つような点もあり、日本語と全く異なる言語とすることは再考すべきではないかとの意見もある[51]
人口と分布アイヌの一家 (1904年)北海道のアイヌ人の分布地図 1999年樺太のアイヌ(1903年)千島アイヌ竪穴建物


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