アイヌ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

2000年以降はDNA研究が進歩し、遺伝子情報による系統研究が行われているが、それらの成果によりアイヌは縄文人・オホーツク人・本土日本人を祖先集団にもつ、複雑な形成過程をたどったとする説が有力視されている[74][注 11]

篠田謙一(2015年)は、現代アイヌのミトコンドリアDNAハプログループの出現頻度の特徴として、縄文人由来とされるN9b(8%)とM7a(16%)を含めほとんどが本土日本人・沖縄集団と共通するものであるが[注 12]、いっぽうで本土日本人・沖縄集団ではほとんど確認できず北アジア集団によく見られるY(19%)とG(25%)が高頻度で現れることを挙げた[75][74]。そのうえで北海道縄文人・オホーツク人・近世アイヌのミトコンドリアDNAハプログループ出現頻度との比較により、この特徴はアイヌはオホーツク沿海州地域先住民と共通するハプログループをもつ北海道縄文人を基層集団とし、オホーツク人の2集団の混血によって近世アイヌ集団が形成され、近世以降には本土日本人とも混血したと推測している[74][注 13]。また近世アイヌのミトコンドリアDNAハプログループ出現頻度は地域差が大きい事も確認されており、北海道アイヌ樺太アイヌ千島アイヌのアイヌ3集団の形成も統一的ではない可能性を示唆するとしている[76]

また篠田は、上記の結果はY染色体ハプログループの研究とも矛盾していないとしている。縄文人に由来すると考えられているD2Cは、現代日本人のなかでもアイヌ・沖縄集団に高頻度で出現する[77][注 14][注 15]

ティモシー・ジナムら(2012年,2015年)は、日本列島を含む現代東アジア30集団の主成分分析を行い、ヤマト人・アイヌ人・オキナワ人がグループを形成し、これに最も近縁な集団が韓国人で、その先にその他の東アジア集団がまとまるという結果を発表した。日本列島集団間の比較では、アイヌ人が最も東アジア集団から遠くオキナワ人が続いているが、斎藤成也は遠い集団ほど縄文人要素を強く持つと推測している[72]

神澤秀明ら(2016年)は、三貫地縄文人と現代日本列島の3集団・北方中国集団の核ゲノムSNPの比較を行い、本州日本人と沖縄集団は比較的近い一方で、アイヌは三貫地縄文人と北方中国人集団の要素をそれぞれ共有していたと発表した。また三貫地縄文人と共通するDNAデータの割合は、アイヌが68%あまりともっとも高く、沖縄集団・本土集団・北方中国集団の順で続いていた。この論文の責任著者の斎藤は、現代アイヌは縄文人を基層集団として北方集団と混血したと推測し、二重構造モデルを補完する結果だとしている[78]

神澤秀明ら(2019年)は、船泊遺跡縄文人の核ゲノム解析の論文を発表。その中でF23と呼ばれる縄文女性の遺伝子を現代日本列島3集団が引き継いだ割合について、本土日本人13%・沖縄集団27%・アイヌ66%とした。また現代アイヌのゲノムからF23のゲノムを差し引いた残りのゲノムについて、カムチャッカ半島の先住民と最も近いとし、アイヌの祖先集団を縄文人と北東アジア人とする従来説と矛盾しないと結論付けている[79]

覚張隆史ら(2020年)は、伊川津縄文人の核ゲノム解析の論文を発表。その中でIK002と呼ばれる縄文女性は南ルートで日本列島にやってきた集団で、その遺伝子を最も多く受け継ぐ現代人はアイヌ(79.3%)としたうえで、この結果は二重構造モデルを支持すると結論付けている[80]

佐藤丈寛ら(2021年)は、900年前のオホーツク人の核ゲノム解析の論文を発表。その結果から現代アイヌの形成過程について、まず縄文人69%・オホーツク人31%の割合で混血が行われ、さらにその集団71%に対して本土日本人29%の割合で混血が行われたとする想定が最も矛盾が少ないとしている[81]
研究史

アイヌの研究は、日本人起源論争と関連して早くから注目されていた。1820年代にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、石器時代にアイヌの祖先集団が日本列島全体に住んでいたと推測したうえで、のちに大陸から新しい人種が日本列島に移入し、アイヌは北海道に追いやられたとする「アイヌ説」を唱えた[82][83]。この説は小金井良精も支持するが、アイヌの系統については「人種の孤島」と表現して態度を保留した[84][83]。いっぽうで1877年にエドワード・モースは、旧石器人(縄文人)がアイヌが所持していない土器を用いたことから、旧石器人をアイヌとは別の先住民とする「プレアイヌ説」を唱えた[82][83]坪井正五郎もこれに続き、この先住民をイヌイット系集団で、アイヌ文学に登場するコロポックルとする「コロポックル説」を唱えた。小金井と坪井の議論は「アイヌ・コロポックル論争」と呼ばれる[82][85]

アイヌの頭蓋骨を調査したジョージ・バスクは、1867年にアイヌを白人系人種とする説を発表。この他に、旧ソ連の人類学者はオーストラリア系人種、あるいはアジア系人種とする研究が続いた[84]エルヴィン・ベルツは、日本人の「三段階移住仮説」を提唱し、最も早く移住した集団をコーカソイド系人種でアイヌの祖先集団とした。またベルツは、1911年にアイヌと沖縄集団を同祖とする「アイヌ・沖縄同祖論」を発表している[82][83]。東アジア一帯を踏襲調査した鳥居龍蔵は、アイヌの祖先である縄文人を先住民とし、後続する大陸渡来人(固有日本人)が渡来して一部が混血したとする「固有日本人説」を唱え、国内で多くの賛同を得た[86]

清野謙次は、従来の国内アイヌの研究が文化面に偏っていることを批判し、人骨に着目。その研究結果から1926年に、アイヌと本土日本人を石器時代人を基層集団として近隣集団と混血したとする「混血説」を提唱した[87]。いっぽうで昭和に入ると児玉作左衛門も多数の人骨調査を行い、「白人起源説」を主張。古畑種基も現代アイヌの血液型や指紋の研究からこれに追従した[84]

1960年代になると、新たな研究手法が取られるようになる。尾本惠市は血中たんぱく質を利用した遺伝学的分析をおこない、アイヌは本土人・中国人に最も近く、ついでアメリカ先住民・アボリジニポリネシア人と続くが、白人やバンツー族とはきわめて遠いとした[73][84]。また、埴原和郎は歯に関する研究を行い、モンゴロイド系とした[73]。これに追従する研究者には山口敏・百々幸雄・石田肇・オッセンバーグ・ピトロセウスキー・コジンツェフらがおり、これらの研究によりアイヌとコーカソイドとの近縁性は否定され、アイヌは日本人を始めとするアジア諸集団に近いと考えられるようになった[84][73]

1991年に埴原は、アイヌを縄文人古モンゴロイド)の直系子孫とする「二重構造モデル」を発表。その後、山口敏(1999年)の頭蓋骨の研究、百々幸雄の頭蓋小変異・顔面扁平度、松村博文、埴原和郎と埴原恒彦の歯の研究で縄文人とアイヌの近縁性が明らかになった[73]。その後山口と百々は、北海道縄文人から続縄文人、擦文人を経てアイヌへの人骨形質が連続して変化していく様子を明らかにし、アイヌを縄文人の子孫とするシナリオが有力視されるようになった[73]

1980年代後半からは、人類学でDNA研究が活発に行われるようになった。特に1987年に発表された「新人のアフリカ起源説」により、従来の定説であった「多地域進化説[注 16]が否定され、わずか20万年のあいだに現代人の直接の祖先である新人が世界中に拡散したと考えられるようになったことは人類学に大きな影響を与えた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:203 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef