アイヌ
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擦文時代の後期になると擦文人の経済力の拡大を背景に[28]、和人との交易により大量に移入された鉄鍋漆器が使用されるようになり、それまで自製していた土器[29]も次第に作られなくなっていった。この擦文土器の終焉をもってアイヌ文化期へ移行したものと区分されている。ただし内耳鉄鍋を模倣した内耳土鍋は北海道で15世紀頃まで用いられており[30]、また北千島では18世紀、あるいは19世紀頃まで土器が使用されていたと考えられている[31][32]など、土器の使用が短期間にアイヌの全地域で消滅したわけではない。北海道においては擦文時代からアイヌ文化期にかけて住居もそれまでの竪穴建物から、主に本州の平地建物の影響により、あわせて北方文化の要素も取り入れたチセへ移行する[33][34]。擦文時代の建物に導入されたかまどがすたれ、炊事は囲炉裏でのみ行われるようになる。また、擦文時代には多くの遺跡からキビアワオオムギの種子や農具としてのが出土し、先・先出土(9か所)例も有る[35]など、狩猟採集と並行して農耕が盛んに行われていた。アイヌ文化でもその狩猟採集と農耕の並行が続けられたが、地域差はあるものの農耕はおおむね低調となり、狩猟採集に比べて補助的な役割となった。一方でアイヌ文化においても近世前半までは農耕がより盛んであり、農耕の衰退はアイヌ文化の成立期ではなく、近世後半に起きた現象であるとの分析もある[36]

このように13 - 14世紀頃には狩猟・漁撈・採集と一部の農耕を組み合わせ、交易を行うアイヌの文化的特色が形成された[23]。擦文文化からアイヌ文化への移行は11世紀に北海道の日本海沿岸で始まり、13世紀にかけて北海道全域に広がっていった[37]

12世紀以降、道南に和人の定着が始まり、13 - 14世紀には鎌倉幕府によって安東氏蝦夷管領に任じられ、道南に幕府の影響力が及ぶようになった。13世紀までにはアイヌは樺太へも進出し定住していたが、やがて樺太在地のニヴフ(オホーツク文化人の子孫と考えられる)と対立するようになった。そこでニヴフがモンゴル帝国に救援を要請したため、1264年、モンゴル帝国は樺太に侵攻し、アイヌ征討を図った。アイヌとモンゴルとの間の戦争は長期化したが、1308年、樺太アイヌがモンゴルに毎年獣皮を朝貢する事を条件に講和が成立した。

アイヌからオロッコと呼ばれたウィルタともアイヌは交易していた。1457年には道南でコシャマインの戦いが生じ、勝利した蠣崎氏が台頭した[23]。蠣崎氏を祖先とした松前藩はアイヌとの交易を独占し、アイヌから乾燥ニシン・獣皮・の羽(矢羽の原料)・海草を入手し、対価を鉄製品・漆器木綿などで支払っていた[23]。また、から伝わった蝦夷錦などの衣服を当初はアイヌを介し輸入した(山丹交易)。北千島を除き、郷村制が敷かれ、アイヌの有力者を役蝦夷に任命。アイヌは百姓身分に位置づけられていた。1669年シャクシャインの戦い後には、交易はアイヌにとって不利な条件となった[23]。江戸幕府はロシアからの軍事圧力に対抗して蝦夷地を幕府直轄領とした[23]。幕末、箱館奉行によって、アイヌも和人も分け隔てなく疱瘡対策の種痘を行い、同時にアイヌの呼称は「蝦夷」から「土人」に改称された。これは当時、純粋に「土地の人」や「地元の人」の意味で用いられた言葉である。イオマンテの一場面。熊を檻から引き出し、ロープをかけて広場に連れ出す。右から、熊の世話係だった女性が従う。

1771年明和8年) - 択捉島のアイヌと羅処和島のアイヌが団結し、得撫島磨勘留島でロシア人を数十人殺害する事件が発生しており、アイヌとロシア人の関係は、良好な状態だけではなかった[38]

1855年2月7日安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}により、当時の国際法の下、一部がロシア国民とされた[要出典]。

明治2年(1869年)、蝦夷地は北海道と改称され、同時に開拓が本格的に開始される。屯田兵や一般の農民が次々と入植し、和人の人口が増加した[23]。戸籍制度において、アイヌの人々は日本国の「平民」とされるが、イオマンテ入墨耳環など、アイヌ伝統の文化は「陋習」とみなされた。1871年には女子の入墨とチセウフイカ(故人を弔うためその家を焼く風習)が禁止される[39]

同時に「旧土人学校」(アイヌ学校)が各地に設立され、アイヌ語の禁止などは行われなかったものの、教育が日本語で行われた[注 5]ことでアイヌ語話者は漸減していく[23]。1875年、地租改正によってアイヌの土地も私有財産と見做されるが、多くのアイヌは地権という概念に馴染めず、和人にこれを詐取される者が続出し、多くが移住を余儀なくされる[23]。また、乱獲による動物の減少を防ぐためとして伝統的な狩猟、漁撈も制限され[注 6]、生活も困窮の一途をたどっていく[39]。対策として、政府は1899年に北海道旧土人保護法を施行し、無償医療の提供、冬季生活資糧の給付、土地の無償下付や農具の給付など、様々な救済措置を実施した[39]。しかし北海道は元来、農地に適していない土地が多く、また充分な農業指導が行われなかったため、アイヌの生活改善は遅れた[23]
文化「アイヌ文化」、「ユーカラ」、「アイヌ音楽」、および「アイヌ料理」を参照加納 沖 (OKI (ミュージシャン))

文字や絵を持たなかったことから、アイヌ以外の民族が残したアイヌ絵や残された遺産などが学術資料となる[40]
宗教アイヌの祭壇「ヌサ」。明治後期。イオマンテを描いたアイヌ絵(『蝦夷島奇観』模写、平沢屏山筆、大英博物館蔵)「イオマンテ」を参照

アイヌの宗教はアニミズムに分類されるもので、動植物、生活道具、自然現象、疫病などにそれぞれ「ラマッ」と呼ばれる魂が宿っていると考えた。この信仰に基づく儀礼として、「神が肉と毛皮を携えて人間界に現れた姿」とされる熊を集落で大切に飼育し、土産物を受け取った(殺した)上でその魂を天界に送り返す儀式イオマンテがある。祭壇はヌサとよばれ、ヒグマの頭骨が祀られた。
キリスト教

北千島新知郡占守郡)に住む千島アイヌロシア正教会の神父コウンチェウスキーによって、1747年最初に正教に改宗する者が出た。北千島には聖堂が建てられ、ロシア人宣教師は狩猟民族であったアイヌと一緒の生活を送り、季節毎に島々を移動した。1800年代には、北千島の千島アイヌ160人全てが正教徒になっていた。


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