アイヌ
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すなわち生業から得られる毛皮海産物などをもって、黒竜江下流域や沿海州との山丹交易を仲介したほか、カムチャツカ半島南部の先住民族のイテリメン族と交易を行っていた。また、津軽海峡を隔てた日本列島の和人とも交易を行いなどの食料漆器木綿鉄器などを入手していた[4]

アイヌは、元来は狩猟採集民族であり、文字を持たず、物々交換による交易を行う。独自の文化を有する[5]母語アイヌ語。独特の文様を多用する文化を持ち、織物や服装にも独特の文様を入れる[注 1](かつては、身体にも刺青を入れた)。家(住居)(アイヌ語で「チセ」)は、(昭和期以降の学者らが)「掘立柱建物」と呼ぶ建築様式である。1878年(明治11年)、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌの男性。

アイヌは日本とロシアに居住する「少数民族[6]」であり、現在の日本国内では日本国籍を持つ人の民族についての調査はされていない[7]ため、少なくとも北海道首都圏に幅広く居住していることくらいが漠然と分かっているだけとなっている。研究者らの間でさえも、「だれがアイヌ民族か」「だれをアイヌ民族として対象とするか」で議論があり[8]、正確な居住地域や正確な数などはよくわかっていない。

2007年には国際連合において「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されるなど、世界的に、先住民族への配慮を求める要請が高まってきた[9]。(そうした世界的な要請も視野に入れつつ)翌2008年(平成20年)には日本の両院の本会議においても「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が採択された[9]。さらに日本の国会は、2019年(平成31年)4月19日に「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(アイヌ施策推進法)」を制定し、法律として初めて「先住民族」と明記された[10][11]
呼称
アイヌ1899年鳥居龍蔵が撮影した千島アイヌの一族樺太東海岸のアイという集落の長・バフンケ(日本語名・木村愛吉 1855 - 1919?)。ブロニスワフ・ピウスツキにより撮影された[12]シャクシャイン時代の北海道

アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない[注 2]。これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、大和民族和人、シサム・シャモ[注 3])とアイヌとの交易量が増加した17世紀末から18世紀初めにかけての時期とされている。

ウェンペ

アイヌの社会では、本来は「アイヌ」という言葉は行いの良い人にだけ使っていた。悪い同胞を彼らはアイヌと言わず、ウェンペ(悪いやつ)と呼んだ[13]

地域差

地域によって文化や集団意識が異なり、北海道太平洋岸東部に住したアイヌは「メナシクル」と称し、同様に太平洋岸西部のアイヌは「シュムクル」(シュムは西を意味する)、千島のアイヌは「クルムセ」もしくは「ルートムンクル」などと呼ばれるなど居住地域ごとに互いを呼びわけていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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