アイヌ語
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歴史「アイヌの歴史」および「アイヌ文化#近代のアイヌ」も参照

江戸時代松前藩はアイヌが日本語を使用することを禁じていたが、ロシア帝国南下政策でロシア人とアイヌの接触が顕著となると、江戸幕府蝦夷地をたびたび直接統治するようになり、アイヌの和風化(同化)が試みられるようになった[4]。東北地方のアイヌ(本州アイヌ)は近代に入るまでに同化し、言語の記録がほとんど残っていないが、東北各地の地名やマタギ言葉などにその痕跡がある。

明治時代に入ると、明治政府によってアイヌへの日本語教育が開始され(ジョン・バチェラーなどアイヌ語教育を試みる者もいたが、公教育には採り入れられなかった)、また日本人の大量入植でアイヌが地域の少数派に追いやられていったため、「未開」「原始的」といった偏見と蔑視が強まり、アイヌ語の地位が大きく低下した[4]。地位の低下により、子供の前でアイヌ語の使用を極力避けるなど、多くのアイヌの間でアイヌ語を次世代に継承させることに消極的となった[4]。アイヌ語がアイヌの日常生活から消えるのは1900年頃が節目と考えられ、現在アイヌ語の研究や学習に用いられている資料は1910年頃までに生まれた話者の記録に基づくものが多い[4]。もっとも、アイヌ文化を後世に残そうと積極的にアイヌ語を言い聞かせた家庭もあるなど個人個人の生育環境によって事情は様々で[4]1926年の生まれでありながら祖母の影響でアイヌ語と日本語のバイリンガルに育った萱野茂のような例もある。

千島アイヌ樺太アイヌは日露間の領土変遷に翻弄された。北千島(主に占守島幌筵島)に住んでいた千島アイヌは、樺太・千島交換条約で千島全域が日本領となると、カムチャツカ半島に移りロシア国民となった者以外は色丹島に強制移住させられ、生活環境の変化から人口が激減し伝統文化も衰退、その後1945年ソビエト連邦(ソ連)による北方領土占拠で色丹島も退去させられ、千島アイヌの文化は完全に途絶えた(1962年村崎恭子が北海道内に住む千島アイヌを訪ねた際、アイヌ語の使用を確認できず、翌年千島アイヌ語の消滅を報告した[11])。樺太南部は樺太・千島交換条約でロシア領に、日露戦争によって日本領となったが、1945年にソ連が樺太南部を占拠すると樺太アイヌのほとんどは北海道各地に退去・離散することとなり、樺太アイヌの伝統文化は急速に衰退、1994年浅井タケの死去によって樺太アイヌ語は消滅したとされる(実際にはアイヌ語を多少なりとも知る樺太アイヌはその後も存在した[12])。
現状

現在アイヌ語を継承しているアイヌの数が極めて少ないため、アイヌ語は近いうちに消滅してしまう「消滅危機言語」の一つとなっている。2007年の推定では、約1万5000人のアイヌの中で、アイヌ語を流暢に話せる母語話者は10人しかいなかった[13]。別の推定では、アイヌ語を母語とする人は千島列島・カムチャツカ半島では既に消滅、樺太でもおそらく消滅していて(「ロシアにおけるアイヌ」も参照)、残る北海道の母語話者も平均年齢が80歳を越え、母語話者数も10人以下となっている[14]。アイヌ語の消滅危惧のレベルは「おそらく消滅した言語」と「消滅の危機に厳しくさらされる言語」の間の「消滅に近い言語」となっている。2009年(平成21年)、ユネスコにより「危機に瀕する言語」として、最高ランクの「極めて深刻」の区分に分類され、数年後には母語話者の死亡により消滅するとされた[15]。ただし、流暢に話せない世代でも、短い文なら会話できる、あるいは単語なら知っているといった人は少なくない[4]
保存活動

1980年代以降、萱野茂らアイヌ語を残そうとするアイヌ自身の努力の結果、アイヌ語教室が各地に開設され、1981年には山本多助が『アイヌ語小辞典』を発行した。2007年現在、北海道内14箇所にアイヌ語教室が設置され、多くの人がアイヌ語を学んでいる。1987年にはSTVラジオが「アイヌ語講座 イランカラプテ」の放送を開始し、2020年現在も「アイヌ語ラジオ講座」として放送中である。

1986年には、田村すゞ子の教え子と北方言語研究会が上智大学学生らと第一回「アイヌ語祭」を早稲田大学で共催し、和人による全編アイヌ語による演劇などがアイヌ民族や元北海道新聞社員でアイヌ語地名研究家などの前で披露された。

アイヌ文化振興財団主催のアイヌ語弁論大会(イタカンロー)には毎年多くの人が参加し、アイヌ語による弁論や、口承文芸の披露が行われている。

1990年代からアイヌではないがアイヌ語を学ぶ者が増え、アイヌ語の辞典も各種出版されている。特に東北地方は、アイヌとの歴史的連続性や地名研究の必要からアイヌ語への関心は伝統的に高い。関東地方にも関東在住のアイヌまたは和人がアイヌ語を学ぶ集まりがいくつか存在する。

アイヌ語は消滅危機言語であるが、オープンリールカセットテープに記録された音声資料が大量に残されている。そうした音声資料は調査途上で内容が不明なものも多く、アイヌ語学習に使用可能な資料は限られ、今後のアイヌ語学習は音声資料の活用[16]が課題である。
新語の創造

2000年代以降、北海道教育大学旭川校などでアイヌ語を刷新する兆しがある。『アイヌ語旭川方言会話辞典』は現代に不足している語彙の補完を試行しており、imeru(神が放つ光。転じて電気の意)から imeru inaw または imeru pasuy(前者は固定電話で、後者は携帯電話の意。inaw はイナウ、pasuy はを意味する。アイヌの信仰では、イナウや箸は神と人間との仲立ちをすると考えられていて、ネットの中とリアルを仲立ちする例えから)、imeru kampi(電子メール。kampiは紙、または手紙を意味する)等の造語を作り、現代生活で不足している語彙を補完し、「現代の言語として」使える様にする努力が行われている。2008年7月4日に開催された「先住民族サミット」アイヌモシリ2008では、「アイヌ語を公用語とし、義務教育でも学べる言語とすること」を日本政府に提言[17] している。2020年の国立アイヌ民族博物館開設に際しては、館内の各種案内表示にアイヌ語を使用するため、「宝」を意味する「イコ?」と「部屋」を意味する「トゥンプ」を合わせて「展示室」の訳語とする、「往来(する)、お互いに行き来する」を意味する「ウコア??カ?」を「交流」という意味に拡張して使うなど、183の語が検討・選定された[18]北海道大学でも、アイヌ語のキャンパスマップへの併記の試みもあり、そこでも言語学者による翻訳に関する議論が行われ、言語学的な翻訳の精緻化やアイヌ民族視点を反映させた訳などが議論されている[19]。近年では、これらの言語復興運動の試み自体についても研究がなされ、造語や翻訳などを管理する機関(新語委員会)の設立が提案されているが、まだ実現されていない[20]
アイヌ語の記録札幌市のアイヌ文化交流センター。サッポロピ?カコタンというアイヌ語が片仮名で併記されている。(「札幌の美しい村」という意味であり、日本語の片仮名に元来は存在しない「小書き片仮名の "リ"」が用いられている。)

アイヌ語は漢字伝来前の日本語と同様、口承のみによって受け継がれてきた。アイヌの周辺には、大和民族漢民族満州民族ロシア民族など、文字を持つ民族も多かったため、彼らと付き合いのあったアイヌの中には文字を使える者もいたと考えられる。しかし、民族全体で文字を取り入れる動きは無かった[21]

そのため文字による古い記録は、ヨーロッパ人や和人によって書かれたものが残されていて、ヨーロッパ人によるものはラテン文字、ロシア人によるものはキリル文字、日本人によるものは仮名文字と、それぞれの使う文字で記録されている。古くは17世紀初頭に松前を訪れた宣教師ジロラモ・デ・アンジェリスラテン文字による記録が残されている。日本の史料としては平仮名でアイヌ語が記録された『松前ノ言』が最も古く寛永年間頃のものと推定されており、年代の明確なものとしては宝永元年(1704年)に蝦夷地を訪れた禅僧である正光空念の記録が古い。

正徳2年(1712年)に刊行された『和漢三才図会』では、50ほどのアイヌ語の単語とその日本語訳が記されている[22]。蝦夷通詞(アイヌ語通訳)の上原熊次郎は、寛政4年(1792年)に刊行されたアイヌ語の辞書『もしほ草』(書名は蝦夷方言とも)の著者として知られており、自筆稿本である『蝦夷語集』(国立公文書館所蔵)や『蝦夷地名考並里程記』(東京国立博物館所蔵)が伝わっている。


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