アイドル
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横浜銀蝿は折からのツッパリブームに乗り、コンサート会場でスカウトした嶋大輔を「銀蝿一家」の弟分としてデビューさせ、成功を収めた[31]。そして沖田浩之らを輩出した原宿の歩行者天国の路上ダンスパフォーマーだった風見慎吾が挙げられる。風見は萩本欽一の番組でブレイクした。風見のように萩本の番組からアイドルとなった者も多く、イモ欽トリオも同様である。他のバラエティ番組からは『笑っていいとも!』のいいとも青年隊羽賀研二野々村真ら)、他にはジャニーズ事務所から中村繁之が1985年にデビューした。

ジャニーズ事務所は60年代、70年代は経営が不安定だったが、80年代前半には盤石の状態となった。しかし、チェッカーズ、渡辺プロダクションの吉川晃司のロック路線の二組が台頭。対抗するように王道のアイドルグループ少年隊が満を持して1986年にデビューした。さらにはよりテレビ映えのする集団群舞を重視したグループ光GENJIの人気が爆発、社会現象となった。そして忍者もデビューした。

一方でロック志向の高いチェッカーズや吉川、さらにはイギリスのアイドルバンドカジャグーグーを意識したC-C-B[32]の人気を受けて、吉川の事務所の後輩である湯江健幸が彼らのようにロック雑誌でも表紙やグラビアを飾るアイドル歌手として活動した[注 4]。さらにジャニーズ事務所からはテレビドラマでも活躍した岡本健一前田耕陽高橋和也男闘呼組が、日本ではアイドル的な人気を誇ったボン・ジョヴィを意識したハードロック・バンドとしてデビューした。一方でこの当時は「ロック=不良の音楽」の固定観念が根強く、湯江にしても男闘呼組にしても「学校をドロップアウトした不良少年」イメージで売り出され、男闘呼組のキャッチフレーズは「ジャニーズ事務所の落ちこぼれ」[33]というものだった。他方で、彼らの取り組みはアイドル人気、従来型音楽番組の退潮を受けて、ロック、バンドブームを捉えようとした動きでもあった[34]

また、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)は「テクノポリス」「ライディーン」などがヒット、テクノカットが流行するなどアイドル的な人気を得た。

この頃にもまだ俳優もアイドル風に売り出される者が存在し、主にJAC出身の真田広之池田政典角川映画野村宏伸、映画『ビー・バップ・ハイスクール』でブレイクした仲村トオル横山やすしの息子の木村一八、子役アイドルの高橋良明らがいた。

お笑い界からは1980年代初頭には明石家さんま漫才ブームツービート等が人気を博し、ザ・ぼんちの「恋のぼんちシート」は80万枚を売り上げるヒットとなり、日本武道館でコンサートを開催するなどアイドル的人気を得た。

1980年代後半からはとんねるずABブラザーズ中山秀征、関西では森脇健児ダウンタウン清水圭・和泉修等といったいわゆるお笑い第三世代芸人や、萩本欽一の番組に出演していたCHA-CHA勝俣州和がメンバーだったことで知られるが、他にメンバー数名が当時ジャニーズ事務所所属)等のアイドル的な人気者が生まれた。
1990年代

「アイドル冬の時代」と言われ、男性アイドル人気も下火となる。

その代わりにX JAPANLUNA SEAL'Arc?en?CielGLAYといったヴィジュアル系バンドに人気が集中する状況が続いた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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