アイドル
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が登場するまでの間を「アイドル冬の時代」と呼ぶ[24]

その後、2010年代に至るまで女性アイドル産業が特に盛んな背景として、「元来女性は、男性にはない感動しやすい習性、精緻なる感受性をもつがゆえに、巫女的な妹の力(いものちから)を得て、生きる力、幸福への道を伝えることができる」とする、民俗学者・柳田國男の評論が持ち出されることもある[25]

経済学者田中秀臣は、「アイドルの人気には不景気を打破する効果はないのに、多くの人はアイドルで景気が良くなると錯覚してしまう。そのため、不況時には、さまざまなアイドルが誕生し、想定外の奇抜なアイドルを出現させてしまう」と述べる[26]
男性アイドル史

この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2018年11月)

1950年代、1960年代ザ・スパイダース

1950年代ロカビリーブームでは平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎らが戦後最初期の男性アイドルとなった。歌謡界では、ロカビリーブーム直前の昭和32年12月にデビューした神戸一郎がアイドルの元祖と紹介されることもある。1960年代に「御三家」と呼ばれた西郷輝彦らが人気となり、ほどなく三田明も登場した。

1962年にはジャニーズ事務所の第1号グループであるジャニーズがデビューし、歌って踊るという現代に繋がるアイドルのスタイルが確立された。他にスリー・ファンキーズらの、いかにも芸能的・商業主義的なアイドルも存在し、ジャニーズあおい輝彦らは時代に即したスターとして週刊明星、週刊平凡のグラビアを飾り、ブロマイドの売り上げは人気のバロメーターになっていた。

1960年代半ばにはグループ・サウンズブームが起こり、ザ・スパイダースザ・タイガーステンプターズオックスジャガーズワイルドワンズらが大人気となった[27][28]。グループ・サウンズでは、ザ・タイガースの沢田研二、ザ・テンプターズの萩原健一らが特に人気があった。
1970年代

郷ひろみ西城秀樹野口五郎から成る「新御三家」は、3人とも主に歌手として活動した[注 3]。さらに、ザ・タイガースの後もソロとして活動を続けた沢田研二は、ソロデビュー後も次々と大ヒット曲を世に送り1977年の「勝手にしやがれ」では、同年の『日本レコード大賞』を受賞するなどとしてソロデビュー後も人気を保ち70年代をも代表するアイドル歌手となった。ザ・スパイダース堺正章井上順はソロとなった後、ヒット曲を数曲出したが、俳優、司会やバラエティ番組出演に軸足を移した。ザ・テンプターズ萩原健一オックスの田浦幸こと夏夕介は俳優に転身し人気となった。新御三家の他にはフォーリーブスフィンガー5にしきのあきら野村将希伊丹幸雄荒川務城みちるらが登場した。アイドル百花繚乱時代であった。

この時代の男性アイドルのレコードジャケットやブロマイド、アイドル雑誌のグラビアではヨーロッパの城のような建物をバックに撮られた「白馬に乗った王子様」というような非現実的なイメージのものも多く、女性アイドル同様、手の届かない別世界のスターとして記号化される事例も見られた[29]。一例として、ギリシャ神話の彫像のような恰好をした郷ひろみの「裸のビーナス」のジャケットやメルヘンチックなタイトルの「イルカにのった少年」の大ヒットで知られる城みちるが挙げられる。また、豊川誕のように「不幸な生い立ち」が売り出しの際に喧伝されたものもいた。これらどこかおとぎ話の中の人物のような人々とは一線を画し、テレビが社会に広く浸透したことから、『笑点』の「ちびっ子大喜利」出身のグループずうとるびや、オーディション番組『スター誕生!』出身の城みちる、『スター・オン・ステージ あなたならOK!』出身のあいざき進也、『レッツゴーヤング』の「サンデーズ」出身の太川陽介渋谷哲平川崎麻世らのように素人、あるいは素人同様のタレントとしてテレビ番組に出演し、その成長とともに視聴者のアイドルとなっていく者たちもいた。

一方、若手俳優の中からも山口百恵とのコンビで一世を風靡した三浦友和石橋正次桜木健一草川祐馬国広富之などテレビドラマからブレイクし、アイドル的人気を博す者も現れた。石橋は紅白歌合戦にも出場、「夜明けの停車場」(1972年度年間ランキング第11位)が大ヒットした。沖雅也日活ニューフェイス出身だが、映画の斜陽化により、テレビドラマに進出してからアイドル的人気を得た。仲雅美井上純一加納竜は元々は歌手として売り出されたが、テレビドラマでの活躍によって人気となった。仲雅美は出演したドラマ『冬の雲』の勢いに乗り、劇中主題歌「ポーリュシカ・ポーレ」(ロシア民謡が原曲)に歌詞を付けて歌い、1971年度年間ランキング第17位の大ヒットとなった。

シンガーソングライターの原田真二も当初は、アイドルとして売り出された。

70年代は新御三家の人気が続き、雑誌メディアがポスト新御三家として「新新御三家」(城みちる・あいざき進也・豊川誕(3人目は荒川務か松田新太郎の場合も))、「新新新御三家」(草川祐馬・加納竜・山本明)というセットを喧伝したが定着しなかった。
1980年代

1979年の『3年B組金八先生』で生徒を演じた田原俊彦近藤真彦野村義男から成るたのきんトリオジャニーズ事務所)がソロ歌手デビューし、次々とヒットを飛ばした。ジャニーズ事務所とTBS桜中学シリーズはその後も本木雅弘薬丸裕英布川敏和から成るシブがき隊ひかる一平がデビューした。また、『金八シリーズ』からは他事務所からも竹の子族出身の沖田浩之が人気アイドルに、他には後に本格的なロック歌手となる本田恭章がアイドルデビューした。

一方、桜中学シリーズの煽りを受けて、人気が下降してからの裏番組『太陽にほえろ!』に出演した渡辺徹は、後に肥満が進み、それをネタとして人気司会者となるが、その時点では精悍なマスクが人気で、本人出演のアーモンドグリコのCMソングとして使用されたセカンドシングル「約束」が1982年の年間ランキングで33位のヒットとなり[30]、『太陽にほえろ!』の人気復活にも貢献した。

1980年代前半にデビューした主だったソロ歌手としては竹本孝之、『レッツゴー・ヤング』のサンデーズ出身者からは堤大二郎新田純一山本陽一らがいた。横浜銀蝿Johnnyもアイドル的な人気を得ていた。横浜銀蝿は折からのツッパリブームに乗り、コンサート会場でスカウトした嶋大輔を「銀蝿一家」の弟分としてデビューさせ、成功を収めた[31]。そして沖田浩之らを輩出した原宿の歩行者天国の路上ダンスパフォーマーだった風見慎吾が挙げられる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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