郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎から成る「新御三家」は、3人とも主に歌手として活動した[注 3]。さらに、ザ・タイガースの後もソロとして活動を続けた沢田研二は、ソロデビュー後も次々と大ヒット曲を世に送り1977年の「勝手にしやがれ」では、同年の『日本レコード大賞』を受賞するなどとしてソロデビュー後も人気を保ち70年代をも代表するアイドル歌手となった。ザ・スパイダースの堺正章、井上順はソロとなった後、ヒット曲を数曲出したが、俳優、司会やバラエティ番組出演に軸足を移した。ザ・テンプターズの萩原健一、オックスの田浦幸こと夏夕介は俳優に転身し人気となった。新御三家の他にはフォーリーブスやフィンガー5、にしきのあきら、野村将希、伊丹幸雄、荒川務、城みちるらが登場した。アイドル百花繚乱時代であった。
この時代の男性アイドルのレコードジャケットやブロマイド、アイドル雑誌のグラビアではヨーロッパの城のような建物をバックに撮られた「白馬に乗った王子様」というような非現実的なイメージのものも多く、女性アイドル同様、手の届かない別世界のスターとして記号化される事例も見られた[29]。一例として、ギリシャ神話の彫像のような恰好をした郷ひろみの「裸のビーナス」のジャケットやメルヘンチックなタイトルの「イルカにのった少年」の大ヒットで知られる城みちるが挙げられる。また、豊川誕のように「不幸な生い立ち」が売り出しの際に喧伝されたものもいた。これらどこかおとぎ話の中の人物のような人々とは一線を画し、テレビが社会に広く浸透したことから、『笑点』の「ちびっ子大喜利」出身のグループずうとるびや、オーディション番組『スター誕生!』出身の城みちる、『スター・オン・ステージ あなたならOK!』出身のあいざき進也、『レッツゴーヤング』の「サンデーズ」出身の太川陽介、渋谷哲平、川崎麻世らのように素人、あるいは素人同様のタレントとしてテレビ番組に出演し、その成長とともに視聴者のアイドルとなっていく者たちもいた。
一方、若手俳優の中からも山口百恵とのコンビで一世を風靡した三浦友和、石橋正次、桜木健一、草川祐馬、国広富之などテレビドラマからブレイクし、アイドル的人気を博す者も現れた。石橋は紅白歌合戦にも出場、「夜明けの停車場」(1972年度年間ランキング第11位)が大ヒットした。沖雅也は日活ニューフェイス出身だが、映画の斜陽化により、テレビドラマに進出してからアイドル的人気を得た。仲雅美や井上純一、加納竜は元々は歌手として売り出されたが、テレビドラマでの活躍によって人気となった。仲雅美は出演したドラマ『冬の雲』の勢いに乗り、劇中主題歌「ポーリュシカ・ポーレ」(ロシア民謡が原曲)に歌詞を付けて歌い、1971年度年間ランキング第17位の大ヒットとなった。
シンガーソングライターの原田真二も当初は、アイドルとして売り出された。
70年代は新御三家の人気が続き、雑誌メディアがポスト新御三家として「新新御三家」(城みちる・あいざき進也・豊川誕(3人目は荒川務か松田新太郎の場合も))、「新新新御三家」(草川祐馬・加納竜・山本明)というセットを喧伝したが定着しなかった。 1979年の『3年B組金八先生』で生徒を演じた田原俊彦、近藤真彦、野村義男から成るたのきんトリオ(ジャニーズ事務所)がソロ歌手デビューし、次々とヒットを飛ばした。ジャニーズ事務所とTBSの桜中学シリーズはその後も本木雅弘、薬丸裕英、布川敏和から成るシブがき隊やひかる一平がデビューした。また、『金八シリーズ』からは他事務所からも竹の子族出身の沖田浩之が人気アイドルに、他には後に本格的なロック歌手となる本田恭章がアイドルデビューした。 一方、桜中学シリーズの煽りを受けて、人気が下降してからの裏番組『太陽にほえろ!』に出演した渡辺徹は、後に肥満が進み、それをネタとして人気司会者となるが、その時点では精悍なマスクが人気で、本人出演のアーモンドグリコのCMソングとして使用されたセカンドシングル「約束」が1982年の年間ランキングで33位のヒットとなり[30]、『太陽にほえろ!』の人気復活にも貢献した。 1980年代前半にデビューした主だったソロ歌手としては竹本孝之、『レッツゴー・ヤング』のサンデーズ出身者からは堤大二郎、新田純一、山本陽一らがいた。横浜銀蝿のJohnnyもアイドル的な人気を得ていた。横浜銀蝿は折からのツッパリブームに乗り、コンサート会場でスカウトした嶋大輔を「銀蝿一家」の弟分としてデビューさせ、成功を収めた[31]。そして沖田浩之らを輩出した原宿の歩行者天国の路上ダンスパフォーマーだった風見慎吾が挙げられる。風見は萩本欽一の番組でブレイクした。風見のように萩本の番組からアイドルとなった者も多く、イモ欽トリオも同様である。他のバラエティ番組からは『笑っていいとも!』のいいとも青年隊(羽賀研二、野々村真ら)、他にはジャニーズ事務所から中村繁之が1985年にデビューした。 ジャニーズ事務所は60年代、70年代は経営が不安定だったが、80年代前半には盤石の状態となった。しかし、チェッカーズ、渡辺プロダクションの吉川晃司のロック路線の二組が台頭。対抗するように王道のアイドルグループ少年隊が満を持して1986年にデビューした。さらにはよりテレビ映えのする集団群舞を重視したグループ光GENJIの人気が爆発、社会現象となった。そして忍者もデビューした。 一方でロック志向の高いチェッカーズや吉川、さらにはイギリスのアイドルバンドカジャグーグーを意識したC-C-B[32]の人気を受けて、吉川の事務所の後輩である湯江健幸が彼らのようにロック雑誌でも表紙やグラビアを飾るアイドル歌手として活動した[注 4]。さらにジャニーズ事務所からはテレビドラマでも活躍した岡本健一、前田耕陽、高橋和也ら男闘呼組が、日本ではアイドル的な人気を誇ったボン・ジョヴィを意識したハードロック・バンドとしてデビューした。一方でこの当時は「ロック=不良の音楽」の固定観念が根強く、湯江にしても男闘呼組にしても「学校をドロップアウトした不良少年」イメージで売り出され、男闘呼組のキャッチフレーズは「ジャニーズ事務所の落ちこぼれ」[33]というものだった。他方で、彼らの取り組みはアイドル人気、従来型音楽番組の退潮を受けて、ロック、バンドブームを捉えようとした動きでもあった[34]。 また、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)は「テクノポリス」「ライディーン」などがヒット、テクノカットが流行するなどアイドル的な人気を得た。
1980年代