初期のアイスクリームは、冷たいボウルの中で手を使い造られたため、製造は大変に困難であった。これを改良する発明は主に18世紀に移民によってアイスクリームが伝わったアメリカ合衆国でなされた。1846年、アメリカのナンシー・ジョンソンという主婦によって手回しのクランク式の攪拌機が発明された。1851年にはメリーランド州ボルチモア市の牛乳屋ヤコブ・フッセル
が、余った生クリームを処理するために世界初のアイスクリーム製造工場を造った。これ以降、アイスクリームは量産品と、生洋菓子にはっきり分かれるようになる。1867年にドイツで製氷機が発明されると、冷凍技術と酪農の発達に伴い、アイスクリームの工場生産時代が到来した。サンデー(Sundae)は1881年にウィスコンシン州のエド・バーナー(Ed Berners)によって発明された。バーナーは日曜日に5セントでデザートを提供していたため、この名がついた。
禁酒法時代(1920年 - 1933年)のアメリカでは、バーに代わって人々の社交の場となったソーダ・ファウンテンで提供されたことから、アイスクリームは急速な普及を見せた。ビール販売を行えなくなった大手ブルワリーでもアイスクリームの製造が始まった。1916年から1925年までに、アメリカの人口はおよそ15%増加した一方、アイスクリームの消費量は55%も増加した。健康食品としての宣伝も行われた。アイ・スクリーム・バー(I-Scream Bars, 後のエスキモー・パイ(英語版))、グッドユーモア・バー(英語版)、ポプシクルなど、様々な棒付きアイスクリームやアイスキャンディが考案され、普及したのもこの時代であった。1933年に禁酒法が廃止されると、バーが再開されたことでアイスクリームの人気も多少落ち着いたが、以後も国民的な嗜好品の地位を保った。第二次世界大戦中のアメリカ軍でも将兵の士気を向上させるべく大量に供給され、アイスクリームの製造と運搬を専門に行うアイスクリーム・バージも調達された[6]。
2015年夏の1か月間、イタリア国内の数百店舗では、貧困家庭の子ども等にアイスを無償提供するプロジェクト「保留アイス」が実施された。趣旨に賛同した購入客が2つ分の料金を支払うことで成立する仕組みで、SalvamammeというNGOが考案した。同国ナポリ発祥とされる「カフェ・ソスペーゾ(他人のコーヒー先払い)」に倣ったもの[7][8]。
アイスクリームの国別消費量は、統計主体や手法によって差はあるが、ユーロモニター社の調査によれば1人あたりの年間消費量はオーストラリアの19.3リットルが最多である[9]。
日本での普及がアメリカへの渡航歴のある出島松蔵から製法を教わり、横浜の馬車道通りに開いた「氷水屋」で製造・販売した「あいすくりん」である[10][11]。原料は生乳、砂糖、卵黄と至ってシンプルなもので、現在の「カスタードアイス」にあたる。しかし、1人前の値段が2分(現在の価値で約8000円)と大変高価であったため、民衆に敬遠されてなかなか浸透しなかった。『横浜沿革誌』によると、1869年(明治2年)は大赤字となり一時休業したが、翌1870年(明治3年)4月の横浜総鎮守伊勢山皇大神宮創建の祭に際して再開し、祭礼の賑わいと初夏の日差しにより「頗る繁盛を極め、因て前年の失敗を快復」したとある。「アイスクリームの日」である5月9日が日本で初めてアイスクリームを製造・販売した日と一般的に言われ社団法人日本アイスクリーム協会が1965年(昭和40年)に制定しているが、『横浜沿革誌』にはそのような記述はない。出島松蔵は明治天皇に「あいすくりん」を献上した。このアイスは富士山麓の氷穴および函館(北海道)の天然氷を用いて製造したと出島本人が書き残している。後に1899年(明治32年)7月、東京銀座の資生堂でも売り出され、人気メニューとなった。その後、日本でアイスクリームの工業生産がスタートしたのは1920年(大正9年)のことである。
日本でのアイスクリームの2006年(平成18年)度の国産品および輸入品の国内販売額は3558億円とされている(日本アイスクリーム協会集計)。内訳は森永乳業12.5%、江崎グリコ約12.0%、 ハーゲンダッツジャパン11.8%、明治乳業10.5%、 ロッテ9.8%、その他(カネボウ(現クラシエ)、赤城乳業、オハヨー乳業、センタン等といったメーカー)43.4%(日本経済新聞社推計)。
同協会が集計するアイスクリーム類・氷菓のメーカー出荷額は、2020年度に前年度比0.9%増の5197億円と過去最多を更新した。新型コロナウイルス感染症の流行下で、家庭で飲食する内食、巣ごもり消費が影響したものとみられる[12]。