アイザック・ニュートン
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1686年: プリンキピアの出版の際、ロバート・フックとのあいだで万有引力のアイディアの先取権をめぐって対立した[1]。フックを憎むあまりニュートンは、王立科学協会で実権を握った際に、当時の協会にあったフックの肖像画をこっそり処分したともされる。

評価・論評
存命時

師のバローからは高く評価され、ルーカス教授職のポストを譲られるなど、科学者としては高い地位を得た。一方で、ニュートンの講義を聴講する学生は少なく、ついには出席する学生がいなくなってしまう事態にも陥った。教育者として講義の内容について学生からの評価はよいものではなかったとされる[25]。また、アカデミーでニュートンと友人であった自然哲学者のロバート・フックは、後年に、万有引力に関する自らの説をニュートンに盗用されたとして、彼を憎むようになった。ニュートンもフックを憎んだとされる。

イギリス国内における政治や世俗の評価としては、ケンブリッジ大学教授職、下院議員職、行政官職に就き、存命中にサーに任じられ、国葬をもって葬られるなど、多くの栄誉に浴している。

他方、同時代のヨーロッパ大陸側の知識人らは、ニュートンを高くは評価していなかった。ニュートンの学説は当時の大陸側の自然哲学(デカルトに端を発した合理主義哲学など)とは相いれず、大陸側からは異様なものとみなされていた。ライプニッツなどの大陸派自然哲学者らからは、ニュートンの提唱した力学体系は「目に見えない要素」を多く前提としておりオカルト的なものだとみなされ否定された(⇒#ニュートンによる科学革命)。また数学の分野で、ライプニッツから積分法のアイデアなどを剽窃したと非難された(⇒#論争・先取権争い・感情的確執)。
後世ウィリアム・ブレイクによるニュートン。「万能の幾何学者」として描かれている

芸術分野の文化人からの評価については、19世紀にはロマン主義の立場からニュートンの業績が非難されるようになった。特に、ジョン・キーツウィリアム・ブレイクウィリアム・バトラー・イェイツらは、ニュートンを「文学の詩情の破壊者」と公言してはばからなかった。

19世紀から20世紀初頭の科学者らによる科学史では、ニュートンは天才的な自然科学者、自然科学界の一種の英雄といったイメージで語られた。経済学者のケインズもそうした英雄的イメージを聞かされて育ったが、長年の研究の結果、ニュートンを「最後の魔術師」や「片足は中世におき片足は近代科学への途を踏んでいる」と評するようになった。(⇒その他の業績
現代

20世紀においては、1978年から1988年にかけて用いられた1イギリスポンド紙幣の肖像として、ニュートンが登場した。21世紀には、BBCに「100名の最も偉大な英国人」において「6位」とされている。以下に、そのほかの各個人(主に学者)のニュートンの評を示した。

マイケル・ハート(英語版): イギリスの天体物理学者である彼は、1978年の自著『歴史を創った100人』 (The 100: A Ranking of the Most Influential Persons in History) で、歴史への影響度の観点から、ムハンマドを1位、アイザック・ニュートンを2位、イエス・キリストを3位、仏陀を4位とした。

リチャード・ドーキンス: 19世紀にロマン主義者らからニュートンが「文学の詩情の破壊者」とされたことを取り上げ、1998年の自著『虹の解体(Unweave the rainbow)』で「スペクトルの発見に代表されるニュートンの研究こそは人類の知見を大きく広げることに貢献したのであり、結果として宇宙へのセンス・オブ・ワンダーを生み出し、詩情の源泉となる」と述べた。


トーマス・レヴェンソン(英語版): ニュートンが自然科学に与えた影響ではなく、イギリスの財政や金融に与えた影響の大きさに着目した著作を発表した[26]

リンゴの逸話について「 ケントの花(ニュートンのリンゴの木)」も参照

ニュートンがリンゴが落下するのを見て万有引力のアイディアを思いついたとの逸話は有名である。この出来事をニュートン自身が著した記録は存在しないが、周辺の人物が書き残したものとしては次のものがある[27]
ウィリアム・ステュークリウィリアム・ステュークリによる手稿
英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:ウィリアム・ステュークリの手稿 (15ページ)[注 40]

ニュートンの友人であり、ニュートンの初期の伝記を残したウィリアム・ステュークリは、1726年4月15日にニュートンから直接に聞いた話を回顧録として記録している。ステュークリが1752年に書いた伝記では、1726年4月15日のニュートンとの会話とされる以下のくだりがある[28]

「ディナーの後で、暖かい日だったので、庭に出て数本のリンゴの木の木陰でお茶を飲んだ。ニュートンと私だけだった。色々の話の途中で、彼は、「昔、引力についての考えが浮かんできた時と全く同じ状況だ。」と言った。

彼は「なぜリンゴはいつも地面に向かって垂直に落ちるのか?」と自問した。腰を降ろして考えにふけっていたときに、たまたまリンゴが落ちたときだった。「なぜリンゴは横に行ったり上に上がっていかず、いつも地球の中心へ向かうのか?」理由は疑いもなく、地球がリンゴを引き寄せているからだ。物質には引き寄せる力があるに違いない。地球にある物質の引く力の総量は地球の中心にあるのであって、地球の中心以外の所にはないに違いない。

だからこのリンゴは鉛直に、地球中心に向かって落ちるのだ。物質が物質を引き寄せるのであれば、その量は物質の量に比例するに違いない。それゆえ、地球がリンゴを引き寄せるように、リンゴもまた地球を引き寄せるのであると。」

?ウィリアム・ステュークリ(MEMOIRS OF Sr. ISAAC NEWTONS lifeより)

ジョン・コンデュイット

ジョン・コンデュイットは、ニュートンの姪であるキャサリン・バートンの夫である。この夫妻はニュートンが亡くなるまで、ロンドンのニュートン宅で一緒に住んでいた。1727年あるいは1728年に記されたとされる「Memoir of Newton」には次のような記述がある[29][30]

「この頃、彼は流率法の最初のヒントを得はじめた。そしてまた、1665年にペストの流行によって彼が実家へと引き上げていたこの年、リンゴが樹から落ちる様子を観察したことで、彼は(後に)自身が思い至る重力の体系について初めて思索した。」

?ジョン・コンデュイット (※()内は和訳に伴う補記)(Memoir of Newtonより)

ヴォルテール

フランス哲学者歴史家ヴォルテールは、1727年3月のニュートンが死去した時期に、ちょうどイギリスを訪問中であった。彼による1727年の手記のなかに[注 41]、キャサリン・バートン(英語版)から聞いた話としてリンゴの逸話を以下のように記していた[31][32]

「(かつて)同じように、ピタゴラスは鍛冶屋のハンマーの音から音楽のアイデアを見出した。 そして我々の時代、庭を歩いていたアイザック3・ニュートン卿は、樹からリンゴが落ちるのを見て4、重力の体系の最初の思索を得た。」

?ヴォルテール (※文中の数字3、4は原著内の注釈の番号。()内は和訳に伴う補記)(Essay on Epic Poetry of 1727より)

ロバート・グリーン

1727年、ロバート・グリーンは、友人のマーティン・フォークス(ニュートンが王立協会会長であったときの副会長)が、万有引力のアイディアは一個のりんごからインスピレーションを得たものだったと語ったことを、ラテン語で活字にして伝えている[30]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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