科学の分野で偉大な功績を挙げたニュートンではあったが、我が強く気難しくて偏屈な一面があり、議論において意見の合わぬ者は反論の余地すら与えず叩き潰すまで論破した。講義があまりに高度で難解なため、お手上げになった学生から順に退散、誰もいなくなった教室で一人講義を続けていた。生涯で一度だけ笑ったことがあるが、それは論敵がボロを出した嘲りの笑いだったという逸話が残っている。愛猫家としても知られており、研究や実験に超人的な集中力を発揮する反面、食事には無頓着で、食べ忘れて冷え切った食事を研究所に住み着いた2匹の猫に与えていた。当時、イギリス市井の一般通念において猫は単なる街に生息する獣の一種で、愛玩で飼うなどという風習は存在せず、人の食べ物を猫の餌にするのはかなり奇異な行為であった。ニュートンの「常軌を逸した天才の所業」と当時みなされたものとして、猫たちが自由に出入りできるように大きい猫用と小さい猫用の大小2つの扉、つまり「キャットフラップ」を発明したことがあげられる[24]。しかし結果として、大きい猫も小さい猫も大きな扉から出入りすることになり、これを見たニュートンは首を傾げたとの逸話が残っている[24]。 以下のように、ニュートンは同時代の人々としばしば対立する理論、あるいは、類似の理論の先取権について争っていたことが知られている。 師のバローからは高く評価され、ルーカス教授職のポストを譲られるなど、科学者としては高い地位を得た。一方で、ニュートンの講義を聴講する学生は少なく、ついには出席する学生がいなくなってしまう事態にも陥った。教育者として講義の内容について学生からの評価はよいものではなかったとされる[25]。また、アカデミーでニュートンと友人であった自然哲学者のロバート・フックは、後年に、万有引力に関する自らの説をニュートンに盗用されたとして、彼を憎むようになった。ニュートンもフックを憎んだとされる。 イギリス国内における政治や世俗の評価としては、ケンブリッジ大学教授職、下院議員職、行政官職に就き、存命中にサーに任じられ、国葬をもって葬られるなど、多くの栄誉に浴している。 他方、同時代のヨーロッパ大陸側の知識人らは、ニュートンを高くは評価していなかった。ニュートンの学説は当時の大陸側の自然哲学(デカルトに端を発した合理主義哲学など)とは相いれず、大陸側からは異様なものとみなされていた。ライプニッツなどの大陸派自然哲学者らからは、ニュートンの提唱した力学体系は「目に見えない要素」を多く前提としておりオカルト的なものだとみなされ否定された(⇒#ニュートンによる科学革命)。
論争・先取権争い・感情的確執
1660年代: ライプニッツと微分積分法の先取権をめぐって争いが生じ[1]、裁判で25年間争った。この論争は後に、双方の弟子・後継者らも巻き込んで、18世紀まで続くことになった。
1672年: ロバート・フックと光の分散と干渉の理論に関して論争になった[1][注 39]。
1680年: ジョン・フラムスティードと彗星をめぐって論争になった。これは1か月の間隔をあけて現れた彗星が同一のものか別のものかという論争で、フラムスティードが観測データにもとづいて同一だとしたのに対して、ニュートンが別のものだと主張し譲らなかった[1]。論争は一応ニュートンが自説の誤りを認めて収束したものの、自尊心を傷つけられる形になったニュートンは感情的には根に持つことになり、のちに王立協会の会長の地位についたときなどは、その地位を利用してフラムスティードを蹴落とそうとした[1]。また、プリンキピアの執筆時に必要となった天文データを要求するに際して、フラムスティードに対して高慢な態度をとったり、嫌がらせをしたりした[1]。さらには、フラムスティードの長年の観測業績の集大成となる著作『天球図譜』が作られるにあたっては、それを形式的にはハリーの本とし、フラムスティードの名を冠されないよう仕向けるなどという仕返しも行った[1]。
1686年: プリンキピアの出版の際、ロバート・フックとのあいだで万有引力のアイディアの先取権をめぐって対立した[1]。フックを憎むあまりニュートンは、王立科学協会で実権を握った際に、当時の協会にあったフックの肖像画をこっそり処分したともされる。
評価・論評
存命時